「マヌス島」の版間の差分

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1942年に[[日本軍]]がマヌス島に基地を建設する。1944年2月から3月にかけての[[アメリカ軍]]による[[アドミラルティ諸島の戦い|アドミラルティ諸島攻略戦]]でマヌス島は攻撃を受け、日本軍は全滅した。その後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]が支援艦艇を常駐させ、補給拠点の一つとなった。<!---英連邦軍だけでないし、大規模港湾を作ったわけでない--->
 
[[第二次世界大戦]]後には、[[BC級戦犯]]裁判の舞台となった。香港で行われた[[イギリス軍]]による軍事裁判で、[[西村琢磨]]中将は[[シンガポール華僑虐殺事件]]への関与により[[終身刑]]が宣告された。西村中将は[[オーストラリア軍]][[憲兵]]によって[[香港]]からマヌス島に移送され、マヌス島でオーストラリア軍の軍事法廷で再び裁かれた。検察側はパリ・スロンで西村がオーストラリア軍、[[インド軍]]の負傷兵に対して銃撃を命じたと主張した。西村中将は有罪判決が下され、1951年6月11日に[[絞首刑]]とされた。
 
マヌス島に第二次世界大戦前および戦後暮らしたアメリカの[[文化人類学者]][[マーガレット・ミード]]はその著書『''Growing up in New Guinea''』で島の様子を詳述している。