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== 名称 ==
「ヒ船団」の名の由来は定かではないが、航路沿線であるヒリッピン(フィリピン)の頭文字とする説、「[[日本の国旗|日の丸]]」の読みの頭文字とする説<ref name="iwa80">岩重(2011)、80頁。</ref>などがある。
 
個々のヒ船団には、往路(シンガポール行き)の便に奇数、復路(日本行き)の便に偶数の番号が順次割り当てられた。したがって、往路の第1便がヒ01船団、復路の第1便はヒ02船団となる。ヒ88船団など梯団に分割された場合は、ヒ88A船団からヒ88J船団のように梯団ごとのアルファベットも追加されている。おおむね番号順に運航されているが、中止により欠番になった船団や、実際の運航順とは前後している船団もある。
 
なお、日本の護送船団の呼称としては、大戦前半には航路ごとに割り当てられた一定範囲の番号呼称(例:[[北九州港|門司]]発・[[高雄市|高雄]]行きは第101船団-第199船団)を循環使用する方式が広く用いられていた。{{和暦|1944}}2月頃からは、出発地と目的地の読みの頭文字に番号を組み合わせた「モタ01船団」(門司発・高雄行きの1番目の船団)のような方式も用いられている<ref name="iwa70">岩重(2011)、70頁。</ref>。[[ボルネオ島]][[ミリ (サラワク州)|ミリ]]航路の石油輸送船団である「[[ミ船団]]」(例:ミ01船団)や[[鉄鉱石]]輸送専用の「テ船団」(例:[[テ04船団]])、軍隊の作戦輸送である「[[松輸送]]」(例:東松1号船団)・「竹輸送」(例:[[竹一船団]])といった特殊な命名方式もある。
 
== 日本の戦時石油事情 ==
太平洋戦争当時、日本は、円滑な戦争継続のために艦船や航空機などの燃料として、多量の石油を必要としていた。戦前の推計では海軍用250-300万トン、民需用250万トン、陸軍用60万トンの戦時石油需要があった<ref name="iwa80" />。国内の油田や[[GTL|人造石油]]の生産だけでは到底足りず、戦前の石油備蓄を取り崩す一方、[[南方作戦]]で占領したオランダ領東インドや英領ボルネオからの石油輸入が重要となった。
 
南方作戦での資源地帯確保は極めて順調だったのにもかかわらず、その後の石油輸送はあまり順調ではなかった。その大きな原因はタンカーの不足にあった。戦前に建造された日本の大型タンカーの多くは、建造時からの計画通りに[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[補給艦]]として徴用されてしまい、日本本土への石油輸送には使えない状態だった。その結果、本土への輸送に使える大型タンカーは10万総トン未満にすぎなかった<ref name="iwa80" />。不足を補うために[[戦時標準船]]としてのタンカー建造も行われてはいたが、{{和暦|1943}}に入って少しずつ竣工しはじめる程度のペースであった。
 
ヒ船団の運航が始まった1943年度には、年間360万トンの石油輸入が必要と計算されていた。しかし、輸入実績は1943年末の段階で185万トンにとどまっていた<ref name="ooi204">大井(2001)、204頁。</ref>。
 
== 沿革 ==
=== 創設 ===
太平洋戦争開戦前、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]は、東南アジア資源地帯との[[シーレーン]]防衛に関する具体案をもっていなかった。アメリカ海軍が開戦早々に[[無制限潜水艦作戦]]を開始して民間船舶を襲撃したのに対し、日本海軍も[[南方作戦]]終了後に[[海上護衛隊]]を編成し、適宜に護送船団を運航させたが、無護衛の船団や独航船も多かった。日本にとって最重要の南方資源であった石油についても、{{和暦|1942}}3月にボルネオ島[[セリア (ブルネイ)|セリア]]産油を積んだタンカー「[[橘丸 (タンカー)|橘丸]]」([[旭石油]]所属)をさきがけに輸送が始まっていたが、護衛態勢は確立されない状態が1年以上続いた<ref>駒宮(1987)、383頁。</ref>。
 
[[ファイル:IJN Etorofu 1943.jpg|thumb|right|250px|1943年5月竣工の海防艦「[[択捉型海防艦|択捉]]」。]]
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ヒ船団は重要船団とされつつも、護衛兵力の実態は甚だしく不足していた。最初のヒ01船団から{{和暦|1944}}2月のヒ43船団までは、海防艦か旧式[[駆逐艦]]1隻だけの護衛がほとんどであった。ヒ船団の航路を含む海域を担当した[[海上護衛隊#第一海上護衛隊|第一海上護衛隊]]は、他の海域の護衛部隊に比べれば戦力が整っていたが、それでも護衛対象の船舶に比べて絶対的に少数の艦艇しか配備されていなかった。加えて、稼行率を優先して船団編成のための出航待ちを嫌ったため、輸送船5隻程度の小規模船団が細切れに運航され、ただでさえ不足しがちな護衛艦が分散する結果となった。1943年11月に[[海上護衛総司令部]]が創設されてからも、こうした状況は変わらなかった。
 
アメリカ海軍は、1943年9月から、日本のタンカーを潜水艦の最重要攻撃目標と指定していた<ref name="ooi204" />。日本側にとって幸いなことに、1943年末頃までアメリカ海軍の潜水艦用[[魚雷]]は[[不発弾|不発]]が多く、ヒ船団の損害もさほど大きくは無かった。しかし、1944年2月になると、タンカー5隻と[[豪華客船]]「[[浅間丸]]」で構成された重要船団[[ヒ40船団]]が攻撃を受け、タンカー全滅で「浅間丸」も損傷の壊滅的損害を被ってしまった。同月にはヒ30船団も2隻のタンカーを撃沈されており、[[トラック島空襲]]も重なって月間の船舶被害は激増した。ヒ30船団・ヒ40船団のいずれも護衛は海防艦1隻だけで、敵潜水艦に自由な襲撃を許してしまった<ref name="sosyo343344">防衛庁防衛研修所戦史室 『海上護衛戦』、343-344頁。</ref>。
 
=== 大船団主義の採用 ===
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[[Category:第二次世界大戦の輸送船団|ひ00せんたん]]