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設置時期は[[寛文]]4年([[1664年]])とするのが通説であるが、それよりも30年以上も前の[[寛永]]年間には既にこの名称が登場しているため、設置上限はこの時期まで遡ることが可能とされている。
 
寛文12年([[1672年]])の職制によれば定員12名・[[役料]]は100俵であり、御殿([[江戸城]])担当が2名が設置され、残りは[[上方]]担当と[[関東地方|関東]]担当に振り分けられていた(最低4名)。[[天和 (日本)|天和]]2年([[17821682年]])に一旦役料が廃止されたが、[[享保]]7年([[1722年]])に改めて役高350俵が与えられ、翌8年([[1723年]])の制度改革によって地域別振り分けを廃して、代わりに御殿詰・勝手方・取箇改・[[伺方]]・諸向勘定帳改の部門別振り分けが導入された。以後定員は10-13名で推移しながら[[幕末]]にまで至った。
 
{{Japanese-history-stub|かんしようくみかしら}}