「レオン・ワルラス」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Katsura-takashi (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
|||
19行目:
}}
'''マリ・エスプリ・レオン・ワルラス'''(Marie Esprit Léon Walras、[[1834年]][[12月16日]] - [[1910年]][[1月5日]])は、[[スイス]]のローザンヌで活躍したの[[フランス]]生まれ
== 生涯と思想 ==
ワルラスは1834年、フランスの[[エヴルー]]に生まれた。[[エコール・ポリテクニーク]]を受験するものの、最初は受験要件を満たせず、翌年は数学で失敗し、入学出来なかった。やむなく[[パリ国立高等鉱業学校]]に入学
父の[[オーギュスト・ワルラス]]
ワルラスはまた社会改革の理想も父から受け継いだ。レオン・ワルラスは[[土地]]の[[国有化]]をオーギュストから受け継いで提唱した。その要点は次の通り。社会が進歩するにつれて資本蓄積は進み、人口も増加していく。しかし、事実上土地の存在量は固定されているので、社会発展と共に地価そして地代はつねに上昇する。私有財産制の下では、その収益は土地の所有者である地主に帰する。しかしそれは地主の活動によるものではなく、いわば、社会の発展の成果を地主が独占してしまうことになる。一方、労働の成果は労働をした個人に帰するべきものであるから、賃金・俸給に対する課税は、個人の権利を侵害することになる。それでも、個人を超えた別個の存在としての国家或いは社会は、その活動のための収入を必要とする。ワルラス父子は、土地は人間総てに自然から与えられたものと考えるから、社会が必要とする経費は地代収入によって賄うべきであり、それによって国家は個人の権利を侵害する課税の必要がなくなると論じた。もっとも、私有財産である土地を無償で権力的に取り上げることは出来ないので、ワルラスはある種の債券を対価として発行することで土地を国有化することを提案している。しかし、それも現実には不可能であるという結論に至っている。
オーギュスト・ワルラスのエコール・ノルマール・シュプリエールでの学生時代の友人[[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー|オーギュスタン・クールノー]]もまた経済学への数学の導入についてレオン・ワルラスに大きな影響を与えた。また、[[イスナール]]からの影響も指摘されている。レオン・ワルラスの数学的手法やフランス的合理主義はクールノーから学んだものである。クールノーは生産量は[[需要]]、[[価格]]、[[費用]]に関係するという[[関数 (数学)|関数]]を考案した他、
[[小室直樹]]の『経済学をめぐる巨匠たち』によると、その後の[[数理経済学]]に絶大な影響を与えたワルラスだが、本人は実はそれほど[[数学]]が得意でもなかったという説もあるそうだ。実際、ワルラスが経済学に導入した数学は、計算のためというよりは記述言語として使われており、連立方程式の数と未知数の数が一致することを示すことで、大抵の場合は解が存在する、ということに留まる。逆に、この壮大なモデルの穴を埋めていくことが、その後の経済学者の関心を引いたと言える。
===限界革命===
レオン・ワルラスは、[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ|ジェヴォンズ]]や[[カール・メンガー|メンガー]]と並んで[[限界革命]]を導いた理論家の一人に数えられる
===一般均衡理論===
彼の最大の著作である『[[純粋経済学要論]]』(''Eléments d'économie politique pure, ou théorie de la richesse sociale'')は1874年に上巻が、1877年に下巻が出版された。この著作によってワルラスは、[[一般均衡理論]]の父と考えられている。ワルラスは
彼の理論は記述言語としての数学の利用がよく理解されず、難解と思われ、その重要性は永らく世に認められなかった。彼自身、そのことはよく理解しており、友人に宛てた手紙の中でもそのことに触れている<ref>自分の理論の広がりを喩えて、彼は友人に宛てた手紙でこんな風に言っている。人は何をしているかを知っておく必要がある。短期間に取入れたいなら、人参やサラダ菜を植えなければならない。樫の木を植えたいならば、次のように心に言い聞かせるよう、十分賢くなければならない。: 私の子孫達が私のお陰でこの木蔭を得る。こう決めたのは私だ。この小さな苗木が伸びるのを見守り、それが少し育つのを見ても、もっと大きくしようと苗木を引っ張って痛めないようにしなければならない。(1903年4月13日、Louise G. Renard宛)</ref>。それでも彼の理論は、徐々に広がっていき、その死の直前には、最初の著作(『経済学と正義』)以来の研究50周年を1909年に祝われ、世界中の経済学者から感謝のメッセージを受けたのは、幸いであった。彼は1892年に教授職を退き、1910年、モントレーの近くのClarensで死去した。
ワルラスの一般均衡理論は、ローザンヌ大学時代の弟子である[[ヴィルフレート・パレート]]を中心とするグループ([[ローザンヌ学派]])によって継承され、よく知られるようになった。後に[[ワシリー・レオンチェフ]]によって実際の経済に適用する道が開かれた。
[[ケインズ]]はワルラスの一般均衡理論で想定されている経済が現実の[[市場]]と大きく乖離していることを強く批判し、ワルラス流の価格決定モデルは非現実的であると述べた。この批判は、ワルラス自身の方法論からいえば、それは問題が違う、ということになるだろう。他方、「[[新しい古典派]]」の理論家たちはケインズを異端と見なし、ワルラスの一般均衡理論を再評価する。
=== 脚注 ===
80行目:
* "Un initiateur en économie politique d'A. A. Walras", ''Revue du mois'', 1908.
* "Économique et mécanique", ''Bulletin de la Societe vaudoise de sciences naturelles'', 1909.
* ''Œuvres économique complètes. '', 1987-2005.
=== 日本語訳 ===
* [[早川三代治]]訳『レオン・ワルラアス純粋經濟學入門』日本評論社、1931年
|