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'''マリ・エスプリ・レオン・ワルラス'''(Marie Esprit L&eacute;on Walras、[[1834年]][[12月16日]] - [[1910年]][[1月5日]])は、[[スイス]]のローザンヌで活躍したの[[フランス]]生まれの[[スイス]]の[[経済学者]]。[[ヨーゼフ・シュンペーター]]によって「すべての経済学者の中で最も偉大」と評された<ref>Joseph A. Schumpeter, ''History of economic analysis'', 1954, p.827</ref>。また、経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、[[一般均衡]]理論の創造を最初参画定式化した。
 
== 生涯と思想 ==
ワルラスは1834年、フランスの[[エヴルー]]に生まれた。[[エコール・ポリテクニーク]]を受験するものの、最初は受験要件を満たせず、翌年は数学で失敗し、入学出来なかった。やむなく[[パリ国立高等鉱業学校]]に入学するが間もなく。しかし、当時のこの学校の実学指向の強さを嫌い、文学に傾倒し、サンシモン主義者と交わったりして二年留年し、中退したその後、父の[[オーギュスト・ワルラス]]の説得を受け入れて、経済学研究を始めた。経済雑誌記者、鉄道書記会社の事務員等職を転々とし信用レオン・セー(J.ーB. Sayの孫、後財務大臣などを務める)と、協同組合理事、割引銀行を設立しその理事とる。こ事業は、ワルラスの反対にも拘わらず、消費協同組合に過剰融資転々と行い、行き詰まって倒産した。事後処理のために管財人の銀行に雇われ、その間にローザンヌで開かれた租税会議の論文コンクールに応募し、4位に入っている(この時の1位はプルードン)。36歳の時、租税会議で彼に注目していたルショネーに誘われ、スイス、ヴォー州に出来たローザンヌ・アカデミー(後の[[ローザンヌ大学]][[経済学部]]の新設に際して募集された経済学教授採用試験に応募、その社会主義的主張に対する反対に対し、知名人二人と学問的寛容さを示したダメット教授、ルショネーの賛成を得て、4対3で辛うじて合格し、一年の仮採用の後、初代教授となった。
 
父の[[オーギュスト・ワルラス]]もまは、元は法学者であっけれど、当時の価値論に不満を持ち経済学者だっ研究を始めた。オーギュスト・ワルラスは学校の校長、その後視学官を務めており、職業的な経済学者ではなかったが、その経済思想は。しかしレオン・ワルラスの自伝よれば、その経済思想は息子に着想を与えるという点では、特に土地国有化論と共に、価値論について大きな影響を及ぼした。オーギュスト・ワルラスはもっとも、人間の欲求の絶対量に対する財の少性に基づいて財の価値を規定し、この希少性するオーギュスト・ワルラスの概念は、レオン・ワルラスの稀少性概念とは相当に違うので、息子は父の言葉だけを受け継ぎ、その概念は独自のものいくあると言える
 
ワルラスはまた社会改革の理想も父から受け継いだ。レオン・ワルラスは[[土地]]の[[国有化]]をオーギュストから受け継いで提唱した。その要点は次の通り。社会が進歩するにつれて資本蓄積は進み、人口も増加していく。しかし、事実上土地の存在量は固定されているので、社会発展と共に地価そして地代はつねに上昇する。私有財産制の下では、その収益は土地の所有者である地主に帰する。しかしそれは地主の活動によるものではなく、いわば、社会の発展の成果を地主が独占してしまうことになる。一方、労働の成果は労働をした個人に帰するべきものであるから、賃金・俸給に対する課税は、個人の権利を侵害することになる。それでも、個人を超えた別個の存在としての国家或いは社会は、その活動のための収入を必要とする。ワルラス父子は、土地は人間総てに自然から与えられたものと考えるから、社会が必要とする経費は地代収入によって賄うべきであり、それによって国家は個人の権利を侵害する課税の必要がなくなると論じた。もっとも、私有財産である土地を無償で権力的に取り上げることは出来ないので、ワルラスはある種の債券を対価として発行することで土地を国有化することを提案している。しかし、それも現実には不可能であるという結論に至っている。
ワルラスはまた社会改革の理想も父から受け継いだ。同時代のイギリスで[[ファビアン協会]]に集まった社会主義者たちと同様、レオン・ワルラスは[[土地]]の[[国有化]]を提唱しており、地価はつねに上昇するので地代収入によって国家は課税の必要がなくなると論じた。
 
オーギュスト・ワルラスのエコール・ノルマール・シュプリエールでの学生時代の友人[[アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー|オーギュスタン・クールノー]]もまた経済学への数学の導入についてレオン・ワルラスに大きな影響を与えた。また、[[イスナール]]からの影響も指摘されている。レオン・ワルラスの数学的手法やフランス的合理主義はクールノーから学んだものである。クールノーは生産量は[[需要]]、[[価格]]、[[費用]]に関係するという[[関数 (数学)|関数]]を考案した他、[[アルフレッド・マーシャル|マーシャル]]独占的競争から出発して、市場参加者示唆具体化させ需要曲線増やしていき、一般的競争市場図式化をお理論に行き着なっうとし。これに対しワルラスは逆に、絶対的自由競争という理念型の下での一般的市場競争から出発し、特殊なケースに進むべきであると主著では主張している
 
[[小室直樹]]の『経済学をめぐる巨匠たち』によると、その後の[[数理経済学]]に絶大な影響を与えたワルラスだが、本人は実はそれほど[[数学]]が得意でもなかったという説もあるそうだ。実際、ワルラスが経済学に導入した数学は、計算のためというよりは記述言語として使われており、連立方程式の数と未知数の数が一致することを示すことで、大抵の場合は解が存在する、ということに留まる。逆に、この壮大なモデルの穴を埋めていくことが、その後の経済学者の関心を引いたと言える
 
===限界革命===
レオン・ワルラスは、[[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ|ジェヴォンズ]]や[[カール・メンガー|メンガー]]と並んで[[限界革命]]を導いた理論家の一人に数えられるが、他。この二者と人に主著初版の発刊時期でこそ後れを取っている面識はなくのの二人とは独立して独自に理論形成を行った。『純粋経済学要論』の主要な内容は、『社会的富の数学的理論」で同時期に示されている。ジェボンズとは頻繁に書簡を通じてのやり取りがあり、そこから二人は共に、[[ゴッセン]]の理論を先駆者として認めている。マーシャル、メンガーとも文通交流はあるものの、それ程活発とは言えない。特にメンガーは経済学の数学的定式化に懐疑的であったし、また均衡点の分析よりも均衡に至る過程を重視していたので、ワルラスとの文通も活発にはならなかったのであろう
 
===一般均衡理論===
彼の最大の著作である『[[純粋経済学要論]]』(''El&eacute;ments d'&eacute;conomie politique pure, ou th&eacute;orie de la richesse sociale'')は1874年に上巻が、1877年に下巻が出版された。この著作によってワルラスは、[[一般均衡理論]]の父と考えられている。ワルラスは[[理念型]]その経済学大系(l'économie politique et sociale)を、三分する。それは三層に分かれる。現実の本質的な純粋部分を抽出して再構成した(真理を示す)理論経済学を土台現実して、その論理的成果を利用して人々の経済的厚生扱う高める(効用を問題とする)応用経済学、更分けは人と人の関係を問題とす(正義に関わる)社会経済学である。特に理論経済学の最大の目的は、自由競争が適用されるべき範囲を画定することだと言ってもよい。当時のセーの流れを汲む正統派経済学者たち(同時に教条的自由放任主義者と言ってもよい)が、根拠を示すことなく、あらゆる側面で自由放任主義を唱えることを強く批判している。<ref>この両者を説明するために、『純粋経済学要論』決定版の付録1、第1章(久武訳、p.507)概ね以下の様に言及している。{{quote|今日、数え切れぬほど多くの経済が存在するものの、私は二つの学派しか認めない。一つはその命題を証明しない学派であり、いま一つは命題を証明するか(=純粋経済派であって、これ(後者否か(=応用経済学)だこそ私が確立しようと目指しているものである。}}</ref>とによってでワルラスが目指すものは、[[完全競争]]のもとでは、各市場参加者の初期所有量の価値を保持したまま、一般均衡(すべての市場において[[需要]]と[[供給]]の一致し[[均衡価格]]が達成される。)が得られ、[[完人々の効用、引いては社会体の個人的効]]の総和の(初期条件に応じた相対的な)極大が達成されるという純粋経済学上の結論をもとに、[[自由競争]]実現の方策を探るという応用経済学上の課題を設定したのである。
 
彼の理論は記述言語としての数学の利用がよく理解されず、難解と思われ、その重要性は永らく世に認められなかった。彼自身、そのことはよく理解しており、友人に宛てた手紙の中でもそのことに触れている<ref>自分の理論の広がりを喩えて、彼は友人に宛てた手紙でこんな風に言っている。人は何をしているかを知っておく必要がある。短期間に取入れたいなら、人参やサラダ菜を植えなければならない。樫の木を植えたいならば、次のように心に言い聞かせるよう、十分賢くなければならない。: 私の子孫達が私のお陰でこの木蔭を得る。こう決めたのは私だ。この小さな苗木が伸びるのを見守り、それが少し育つのを見ても、もっと大きくしようと苗木を引っ張って痛めないようにしなければならない。(1903年4月13日、Louise G. Renard宛)</ref>。それでも彼の理論は、徐々に広がっていき、その死の直前には、最初の著作(『経済学と正義』)以来の研究50周年を1909年に祝われ、世界中の経済学者から感謝のメッセージを受けたのは、幸いであった。彼は1892年に教授職を退き、1910年、モントレーの近くのClarensで死去した。
彼の理論は難解であり、その重要性は長らく世に認められなかった。彼は1892年に教授職を退き、1910年、モントレーの近くのClarensで死去した。
 
ワルラスの一般均衡理論は、ローザンヌ大学時代の弟子である[[ヴィルフレート・パレート]]を中心とするグループ([[ローザンヌ学派]])によって継承され、よく知られるようになった。後に[[ワシリー・レオンチェフ]]によって実際の経済に適用する道が開かれた。
 
[[ケインズ]]はワルラスの一般均衡理論で想定されている経済が現実の[[市場]]と大きく乖離していることを強く批判し、ワルラス流の価格決定モデルは非現実的であると述べた。この批判は、ワルラス自身の方法論からいえば、それは問題が違う、ということになるだろう。他方、「[[新しい古典派]]」の理論家たちはケインズを異端と見なし、ワルラスの一般均衡理論を再評価する。
 
=== 脚注 ===
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* "Un initiateur en économie politique d'A. A. Walras", ''Revue du mois'', 1908.
* "Économique et mécanique", ''Bulletin de la Societe vaudoise de sciences naturelles'', 1909.
* ''Œuvres économique complètes. '', 1987-2005.
 
=== 日本語訳 ===
* [[早川三代治]]訳『レオン・ワルラアス純粋經濟學入門』日本評論社、1931年