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5000石の旗本・[[大島義近|大島出羽守義近]]の嫡男として誕生。母は[[建部政長]]の娘。内膳・縫殿助・雲八などと称した。叙任後は官位名で伊勢守・肥前守と称した。
== 来歴 ==
 
[[寛文]]12年([[1672年]])5月18日にはじめて将軍[[徳川家綱]]に謁見。[[元禄]]3年([[1690年]])8月6日、父の遺領を相続したが、この際に弟の[[大島義全|義全]]に300石を分与したため4700石の相続となった。[[元禄]]5年([[1692年]])4月14日、御使番となり、12月18日に布衣の着用を許された。元禄7年([[1694年]])正月15日、[[武蔵国]][[川越城]]が[[柳沢吉保|柳沢保明]]居城となった際には川越に赴き、城引渡しの事務を取り仕切った。4月14日、幕府[[目付]]となり、元禄10年([[1697年]])9月1日[[新番]]頭に転じ、元禄12年([[1699年]])6月28日には[[長崎奉行]]に就任し、9月15日に[[従五位]]下伊勢守に叙任した。元禄16年([[1703年]])7月28日、作事奉行に就任。[[宝永]]4年([[1707年]])11月1日、西城の留守居役となり、宝永6年([[1709年]])10月18日に本城の[[留守居]]役に転じた。[[享保]]2年([[1717年]])将軍[[徳川吉宗]]の次男・[[徳川宗武|小次郎]]の髪置の儀式に参加したことで時服五領を、また小次郎からも黄金を賜った。享保4年([[1719年]])3月21日、吉宗の子・源三生誕の時も蟇目の役をつとめたため時服六領白銀五十枚を賜う。
 
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[[Category:大島氏|よしなり]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:長崎奉行]]
[[Category:元禄赤穂事件関係人物]]
[[Category:伊勢守]]
[[Category:肥前守]]
[[Category:武蔵国の人物]]
[[Category:1660年生]]
[[Category:1723年没]]