「ルイ (ブルゴーニュ公)」の版間の差分

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'''ブルゴーニュ公ルイ'''(Louis, duc de Bourgogne, [[1682年]][[10月16日]] - [[1712年]][[2月18日]])は、[[フランス王国]]の王太子([[ドーファン]])。[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の孫で[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の父。父はグラン・ドーファン(大王太子)と呼ばれる[[ルイ (グラン・ドーファン)|王太子ルイ]]、母は[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|フェルディナント・マリア]]の娘[[マリー・アンヌ・ド・バヴィエール]]。'''プティ・ドーファン'''(Petit Dauphin, 小王太子)とも呼ばれる。弟に[[スペイン]]王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]、[[ベリー公]][[シャルル・ド・ブルボン (ベリー公)|シャルル]]がいる。
 
[[スペイン継承戦争]]では祖父ルイ14世の意向で[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[ライン川]]戦線に送られ、[[1707年]]に[[トゥーロン包囲戦 (1707年)|トゥーロン包囲戦]]の救援に赴き、翌[[1708年]]には再びオランダ戦線で指揮を執った。しかし、将軍[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]と意見が合わず衝突、[[アウデナールデの戦い]]にはヴァンドームを助けず傍観の態度を取り敗北、[[リール包囲戦 (1708年)|リール包囲戦]]でもヴァンドーム・[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]と共に包囲軍の外側を襲撃しながら積極的攻勢に出なかったため[[リール (フランス)|リール]]陥落の一因となった。
 
[[1711年]]に王太子である父が死去したため、代わって王太子に立てられたが、翌1712年に29歳で死去した。
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[[Category:ドーファン]]
[[Category:ブルゴーニュ公]]
[[Category:スペイン継承戦争]]
[[Category:1682年生]]
[[Category:1712年没]]