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{{基礎情報 武士
'''宇留野 義元'''(うるの よしもと、生年不詳 - [[天文 (日本)|天文]]9年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1540年]][[4月30日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[常陸国]][[部垂城]]主。[[佐竹義舜]]の子。[[宇留野義久]]の養子。子女に[[大関高増]]室、竹寿丸。四郎。
| 氏名 = 宇留野義元
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[天文 (日本)|天文]]9年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1540年]][[4月30日]])
| 改名 =
| 別名 = 四郎(通称)、部垂義元
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[佐竹義篤 (十六代当主)|佐竹義篤]]
| 藩 =
| 氏族 = [[佐竹氏]]→[[宇留野氏]]
| 父母 = 父:[[佐竹義舜]]、養父:''[[宇留野義久]]''
| 兄弟 =[[今宮永義]]、[[佐竹義篤 (十六代当主)|佐竹義篤]]、'''義元'''、<br>[[佐竹義里]]、[[岩城由隆]]正室
| 妻 =
| 子 =娘([[大関高増]]室)、竹寿丸
| 特記事項 =
}}
'''宇留野 義元'''(うるの よしもと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[常陸国]][[部垂城]]主。
 
== 宇留野氏とは ==
義元は当初は、佐竹氏の庶流である[[宇留野氏]]を継いでいた。宇留野氏は[[佐竹義俊]](義元の曽祖父)の子の[[宇留野義公|義公]]を祖とし、する佐竹氏の庶流である。義元の養父である義久は義公の次男。義久の兄に[[宇留野義長]]がる。なお、後述の部垂の乱において、義長は義篤方に組し、義元方についた義久と敵対している。
 
== 部垂の乱 ==
義元は当初は宇留野氏を継いでいた。[[享禄]]2年([[1529年]])、義元は突如[[小貫俊通]]の部垂(へたれ)城を攻略、'''部垂義元'''と名乗る。宿老の小貫氏を攻撃したことは、佐竹宗家の兄[[佐竹義篤 (十六代当主)|佐竹義篤]]への挑発とみられ兄弟間の争いとなる。しかし、兄の義篤は江戸氏と小田氏の争いに介入するなどしており、状況を打開できずにいた。天文4年([[1535年]])[[高久義貞]]が義元に呼応して挙兵する。義貞はすぐに降伏してしまうが、この機に義元は挙兵し、小瀬(現在の[[常陸大宮市]])で戦い、翌年に和睦した。しかしこの和睦は破られ、天文7年([[1538年]])、天文8年([[1539年]])と部垂にて義篤と戦った。
 
天文8年、義篤は[[下野国|下野]][[那須氏]]の[[那須政資]]、[[那須高資]]父子の抗争に介入したが、翌年に撤退する時に突然に部垂城を攻撃した。これは、城の大手門の橋の普請に不満を持つ義元に家臣の前で罵倒されたことを恨んだ家臣の大賀外記の讒言によるものといわれている。この時僅かに50名の城兵しかおらず、義元は養父の義久、与した[[小場義実]]、養父の義久らと自刃し落城した。嫡男竹寿丸は逃げることに成功するが落城前に裏切った黒沢大学に捕えられ斬殺された。この12年にも及ぶ兄弟の争いを'''部垂の乱'''、または部垂十二年の乱という。
 
義元に与した兄の[[佐竹今宮永義]]や小場氏や前小屋氏らは許され、佐竹宗家の重臣となり、義元の家臣団は部垂衆として[[小場義忠]]の指揮下の小場寄騎衆に組み入れられ、[[慶長]]7年([[1602年]])、[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]の出羽への国替えで小場氏が城代を勤めた[[大館城]]下に移った。
 
== 外部リンク ==
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*[http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/satake.html 佐竹家 家臣団]
 
{{DEFAULTSORT:うるの よしもと}}
[[Category:佐竹氏|よしもと]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:1540年没]]