「金沢市」の版間の差分

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→‎第二次世界大戦以前: 「戦後」が「属した」にかかるのか「与えられ」にかかるのか不明
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[[賤ヶ岳の戦い]]以降、[[前田利家]]が尾山城(金沢城)を居城とし、[[加賀藩]]の原型が形成された。慶長5年([[1599年]])に利家が死去すると、翌年には[[関ヶ原の戦い]]が起こる。利家の遺領を相続した長男の[[前田利長]]は、東軍の[[徳川家康]]につき、西軍に属した弟の[[前田利政]]の所領を戦後に与えられ、[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]を有する大大名となる。3代目藩主[[前田利常]]の時代には、[[十村制]]や[[改作法]]といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主[[前田綱紀]]は[[名君]]として名高く、[[木下順庵]]や[[室鳩巣]]、[[稲生若水]]といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは[[尊経閣文庫]]と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の[[城下町]]として繁栄することとなる。[[参勤交代]]の時、[[前田氏]]は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて[[江戸]]との間を往来した。
 
以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。
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|+ '''江戸時代~明治初期の金沢の人口<ref name=Tsuchiya1>土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その1 藩政期人戸数と人口―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 11号, pp. 125–155 (1979).</ref><ref name=Tsuchiya2>土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その2 藩政期武士戸数と人口―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 14号, pp. 145–177 (1980).</ref><ref name=Tsuchiya3>土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その3 戸籍による人口戸籍統計 (明治5年~大正8年)―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 18号, pp. 99–148 (1982).</ref><ref>金沢市史編さん委員会, 『金沢市史 資料編6 近世四 町政と城下』, 金沢市, 2000.</ref>'''