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'''山路 諧孝'''(やまじ ゆきたか/かいこう、[[安永]]6年([[1777年]]) - [[文久]]元年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]([[1861年]][[7月7日]]))は、[[江戸幕府]]後期の[[江戸幕府]][[天文方]]。通称・弥左衛門。[[山路徳風]]の子。
== 来歴 ==
 
[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])8月暦作測量御用手伝に任じられ、翌文化7年([[1810年]])に父の後を継いで天文方となった。[[文政]]12年([[1829年]])に[[高橋景保]]の[[シーボルト事件]]による失脚に伴って[[蕃書和解御用]]を引き継ぎ、[[蕃書調所]]が天文方から独立するまで務めた。[[天保]]8年([[1837年]])に[[寒暖計]]を製作して幕府に献上して褒賞を受ける。翌年には天保9年([[1838年]])には[[オランダ]]の[[天文学者]][[ペイポ・ステインストラ]]の著『天文学の原理』([[1771年]])を9年の歳月をかけて翻訳した『[[西暦新編]]』を完成させて幕府に献上した。[[弘化]]3年([[1846年]])には嫡男[[山路彰常|彰常]]も天文方に任じられて親子2代で天文方の地位を占め、以後は彰常の協力のもとに職務を進めた。[[渋川景佑]]とともに『寛政暦書』の編纂や[[天保暦]][[改暦]]に活躍し、[[嘉永]]2年([[1849年]])には[[鉄砲奉行]]・[[箪笥奉行]]を兼務した。[[安政]]元年([[1854年]])に[[品川宿|品川]]において、[[望遠鏡]]の実験を行い、その眺望図を幕府に献上した。安政5年([[1859年]])には[[隠居]]して彰常に[[家督]]を譲った。晩年には[[電信機]]の研究や[[航海暦]]の編纂も行っているが、実際にはその多くは彰常を中心としている。