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'''フライシャー・スタジオ'''('''Fleischer Studios, Inc.''')は、[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]][[ブロードウェイ]]1600番地で設立された[[アニメーション]]制作会社に端を発する[[アメリカ]]の企業である。フライシャー・スタジオは[[1921年]]に[[マックス・フライシャー]](Max Fleischer)と[[デイブ・フライシャー]](Dave Fleischer)の'''フライシャー兄弟'''により設立され、[[1942年]]1月に[[パラマウント映画]]に買収されるまで同兄弟により経営されていた。フライシャー・スタジオは初期のウォルト・ディズニー・ブロダクション(後の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]])の最も重要な競争相手であり、『[[道化師ココ]]』『[[ベティ・ブープ]]』『[[ポパイ]]』『[[スーパーマン]]』などのカートゥーン映画を制作した点で注目に値する。
 
== 無声映画作品 ==
ディズニー・スタジオを模倣しようとするフライシャー・スタジオの努力は、ついにはディズニーの『[[白雪姫]](原題:Snow White and the Seven Dwarfs)』の成功を受けた長編アニメーション作品を生み出すこととなった。パラマウントはフライシャーに融資を行い、[[税金|節税]]と、1937年に痛烈な打撃を与えた[[組合]]活動を解散させる目的で、[[フロリダ州]][[マイアミ]]に大規模なスタジオが建設された。新フライシャー・スタジオは[[1938年]]3月に開設され、初長編作品である『[[ガリバー旅行記]](原題:Gulliver's Travels)』を皮切りに、活発な制作活動を開始した。
 
『ガリバー旅行記』は[[1939年]]の[[クリスマス]]に公開され、そこそこの成功を収めたものの、物語とアニメーションの質は模倣しようとした『白雪姫』に遥かに及ばなかった。『ガリバー』から次の長編アニメーション『バッタ君町へ行く』までの期間に、この時期のフライシャーの最高傑作が生み出された。[[アメリカン・コミック]]の[[スーパーヒーロー]]を題材にした高品質な連作短編『[[スーパーマン]]』である。単純に『スーパーマン(原題:Superman)』とのみ題されたこのシリーズの第一作は、10万ドルの予算がつぎ込まれ、それまで上映された短編アニメーションの中で最高の作品となり、[[アカデミー賞]]にノミネートされた。
 
しかしながら、この成功はフライシャーの財政的な問題を解決させるには遅すぎた。マイアミの新スタジオで新規雇用されたスタッフたちは、安定した生産のために多くの作品を作り続けた。継続して制作されていた短編シリーズ『ポパイ』や[[1941年]]の『[[ラガディ・アン&アンディ]]』のアニメーション化作品など、この期間に生産された多くの短編アニメーションは高い品質を保っていた。その他のそれなりに成功した作品としては、短編シリーズ『Stone Age』や『ガリバー』の様々なスピンオフ作品がある。
収益が低下するにつれ、フライシャーはパラマウントからの絶え間ない借金の督促にさらされ、担保としてフライシャーの株は次々とパラマウントに占有されていった。加えて、マックスとデイブのフライシャー兄弟は以前から口も利かないほどの不仲になっていた。パラマウントは[[1940年]]から1941年までのフィルム・シーズンの融資と引き換えに、フライシャー兄弟の辞職をパラマウントの裁量に委ねる旨の書類への署名を要求した。[[1941年]][[5月24日]]、パラマウントはフライシャー・スタジオの完全な所有権を獲得し、フライシャー・スタジオの組織を新たな法人会社[[フェイマス・スタジオ]](Famous Studios)に編入した。フライシャー兄弟は1941年末まで制作管理として残っていた。
 
『バッタ君町へ行く(原題:Mister Bug Goes to Town)』は[[1941年]]12月に公開された。『ガリバー』と異なり、『バッタ君町へ行く』はあらゆる意味で失敗作であり、すぐに上映終了となった。この後、デイブ・フライシャーは[[コロンビア映画]]の系列会社である[[カリフォルニア]]の[[スクリーン・ジェムズ]]・アニメーションスタジオの代表となるために、フライシャー・スタジオを退社した。彼らの競争相手の共同経営者となったデイブ・フライシャーに対し、パラマウントは預かっていた辞表を行使し、借金を請求してフライシャー・スタジオを破産させ、フライシャー兄弟を正式に同社から解雇した。マックス・フライシャーは[[ジャム・ハンディ]]・スタジオに移籍し、[[イサドア・スパーバー]][[ダン・ゴードン]]、マックスの養子[[シーモア・ニーテル]]が、[[1943年]]に再びマイアミからニューヨークへ移転した新会社フェイマスの新たな代表となった。フライシャーは二度と業界の主流に戻ることはなかったが、フライシャーのアニメーション映画とキャラクターの人気は生き残り続け、[[1980年代]]までには、フライシャー兄弟がアニメーション産業の先駆者であると認識されるに至った。
 
今日のフライシャー・スタジオは、ベティ・ブープや道化師ココなどのキャラクター使用認可のみを取り扱う、名目のみの企業である。
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