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[[兵庫県]][[赤穂市]]の堂山遺跡の塩田跡からは、[[鎌倉時代]]の馬一頭分の骨が出土しており、近くから漆器椀なども出土していることから、生贄の馬を奉げた祭りの痕跡と考えられている<!-- 市教 -->。
 
[[南方熊楠]]の「山神オコゼ魚を好むと云うこと」であるように、神に贄として魚を捧げることがあった。神が二つ目あるものより一つ目のものを好むことから、また神に捧げる魚と通常の魚を区別するために魚の片方の目を傷つけ、「片目の魚」として神に捧げることがある。<ref>柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁―96頁</ref>
 
『[[吾妻鑑]]』[[建暦]]2年([[1212年]])8月19日条には、守護・地頭に対して、[[鷹狩]]禁断令が出されたが、「[[信濃国]][[諏訪大明神]]の御贄(ごにえ)の鷹においては免ぜられる」と記してあり、武家法で鷹狩が禁止されても、神に奉げる贄においては特例として使用を認めている。
 
旧三月酉の日、合計75頭の鹿の頭部を[[諏訪神社]]の信仰圏の村々が献じる。また、この地方では好猟を期待して、鹿の頭を[[氏神]]に捧げ、願いが叶うと鹿頭の角に[[注連縄]]を張るという。
 
[[莵足神社]]の[[風祭]]では神前で猪を殺す神事があった。しかし、その猪はいつの頃か雀に変わった<ref>田代道弥「風神のつのとり 考」祭風洞書屋 昭和43年1968年8月1日27頁―30頁</ref>。これ対し[[加藤玄智]]は、佛教史学第一編第10号60頁―63頁(高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院 大正14年1925年5月20日496頁にて引用)で、「柳田君([[柳田國男]])も擧げられ居るのでありますが、三河の莵足神社の風祭に昔は女子を犠牲にして居ったのでありますが、後之を猪及び鹿若しくは雀の犠牲を以って之に代えたと伝えて居る如きは明らかに[[人身供犠]]に代えるに動物を以てした一例であると思う」と記している<ref>[[高木敏雄]]「日本神話伝説の研究」[[岡書院]] 1925年5月20日発行487頁―531頁532頁―538頁</ref>。この点、高木敏雄は加藤玄智とは考えを異にしており、人身御供は動物や金銭では代替できないとしている。
 
[[人身御供]]の[[人柱]]区別に関しては、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」529頁、小笠好恵の「東海道の伝説」41頁-42頁<ref>小笠好恵「東海道の伝説」関西通信社1964年10月1日発行40頁―46頁</ref>にて書かれている。高木敏雄は人身御供と人柱の違いについていくつかの点をあげている。第一に、人柱は神の食物として捧げるのではない。第二に、年々の恒例として神を祭るための目的でもない。第三に、祭祀の儀式が必ずしも必要ではない。この三点である。
 
 
 
== 海外==
 
高木敏雄の「日本神話伝説の研究」512頁によれば、最狭義の[[人身供犠]]は、古代[[メキシコ]]で行われていた、という。これは神と人間の結合を強固にするために行われ、殺された人間の肉が分配されカンニバラ([[カンニバル]])れたとしても、食物として身体を養うために食われるのではなく、宗教的思想から来るものである、と記述している。
 
==関連項目==