「ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)」の版間の差分

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'''ウロシュ4世'''({{lang|se|Цар Стефан Душан силни}}, Stefan Uroš IV Dušan Silni, [[1308年]] - [[1355年]][[12月20日]])は、[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]、[[セルビア帝国]]の[[ネマニッチ朝]]の[[君主]]([[国王]]在位:[[1331年]][[9月8日]] - [[1346年]]、[[皇帝]]在位:[[1346年]] - 1355年[[12月5日]])。[[ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ]]の子。即位前の名は'''ステファン・ドゥシャン'''。
 
父・ウロシュ3世と祖父・[[ステファン・ウロシュ2世ミルティン]]の抗争に巻き込まれ、父と共に[[東ローマ帝国]]に亡命して少年生活を過ごした。やがて父がセルビア王として即位すると、その副王となって父を補佐する。[[1330年]]には侵攻してきた[[ブルガリア]]の大軍を少数の軍勢で見事に撃破して名を馳せた。そして翌年、父がブルガリアと和睦したことに不満を抱く[[貴族]]、自身の前年の戦いにおける功績などを背景にして、父を廃してセルビア王として即位した。
 
この頃、[[東ローマ帝国]]では[[アンドロニコス2世パレオロゴス]]と[[アンドロニコス3世パレオロゴス]]による内紛が起こり、勢力が減退していたが、ウロシュ4世はその隙につけ込んで[[アルバニア]]と[[マケドニア]]を奪取して、セルビア王国の最大領土を形成した。さらにその拡大した勢力を背景として[[1345年]]、「セルビア人とローマ人の皇帝」と称してセルビア主教を[[総主教]]に格上げし、翌年には[[皇帝]]として即位するにいたった。[[1349年]]には、『[[ドゥシャン法典]]』を発布して、政軍ともに帝国の全盛期を築き上げたのである。