「松平昌親」の版間の差分

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==== 再度後継問題 ====
吉品には嗣子が無く、次代候補となるのは先代・昌勝と同じ兄の系統か、御家騒動の一部であった直系しかなかった。
吉品はこの双方を回避するため、[[元禄]]3年([[1690年]])、[[長州藩]]の第2代藩主[[毛利綱広]]の五男・[[松平昌方]](毛利元重、祖母が結城秀康の娘の喜佐姫(竜昌院))を養子として家督を譲ろうとしたが、家臣団の反対により元禄12年([[1699年]])、昌方を「多病」を理由に離別し、兄・昌勝の六男・[[松平吉邦|昌邦(吉邦)]]を養子とした。元禄9(1696年)12月5日、歴代福井藩主に多い、左近衛少将に任じられた。元禄15年([[1702年]])11月25日、幕府から葵の紋着用を再許可され、[[宝永]]元年([[1704年]])にはこれまでの越前家の慣例通り、将軍綱吉から[[偏諱]]を拝領し、昌明から'''吉品'''(よしのり)と改名し、同時に養子の昌邦も吉邦となった。