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== 経歴 ==
[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])、20歳で[[内舎人]]に任官する。[[仁寿]]元年([[851年]])に[[従五位下]]に叙され、[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])の[[清和天皇]]即位に伴い、[[右近衛少将]]に任ぜられる。[[貞観 (日本)|貞観]]6年([[864年]])従四位上・讃岐権守。[[貞観 (日本)|貞観]]10年([[868年]])に正四位下に叙せられ、貞観12年([[870年]])[[参議]]、貞観14年([[872年]])[[従三位]][[中納言]]、[[元慶]]6年([[882年]])大納言、[[寛平]]3年([[891年]])[[右大臣]]と[[藤氏長者]]を兼ね、同5年([[893年]])[[従二位]]。同7年([[895年]])左大臣・[[源融]]の死去により[[太政官]]の長となり、翌寛平8年([[896年]])左大臣に任ぜられるが、同年[[致仕]]し致仕大臣と呼ばれた。
 
冬嗣の末子に生まれ、官人としての立身時と兄[[藤原良房]]の台頭が重なり、これと争うことなく従ったこと<ref>これは[[文徳天皇]]の側近として[[蔵人]]・[[右近衛中将]]を歴任し、次期皇位継承を巡って良房と天皇の対立が緊迫化した天安元年([[857年]])に突如越前権守に左遷されて中央政界から排除された異母兄[[藤原良仁]](冬嗣七男)とは対照的である(栗原、2008年、P159-164)。</ref>、兄弟や甥の[[藤原基経|基経]]よりも長く生きたことによって政敵と争うことなく左大臣にまで昇進し、若い[[藤原時平|時平]]に代わって藤氏長者の地位を得ることが出来た。
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[[Category:平安時代の公家]]
[[Category:藤原北家|よしよ]]
[[Category:讃岐守]]
[[Category:823年生]]
[[Category:900年没]]