「屋代忠位」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 屋代 忠位
| 時代 = [[江戸時代]]前期 - 中期
| 生誕 = [[正保]]4年([[1647年]])
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'''屋代 忠位'''(やしろ ただたか)は、[[安房国|安房]][[北条藩]]の第3代藩主。[[朝倉宣季]]の長男。
 
[[寛文]]3年([[1663年]])、先代藩主で叔父の[[屋代忠興|忠興]]が嗣子なくして死去したため、その婿子としてを継いだ。同年12月に従五位下越中守に叙任する。[[大坂城|大坂]]加番となり、[[元禄]]5年([[1692年]])2月に100人組頭となる。元禄6年([[1693年]])8月に[[大番頭]]となる。しかしその出費のために藩財政が窮乏化し、正徳元年([[1711年]])に全ての職を辞して出費を抑えようとした。また、[[川井藤左衛門]]を登用して本格的な藩政改革を行なおうとした。ところが同年9月、川井は年貢増徴を主とした財政再建を行なおうとしたために領民の多くが反発し、11月には一部が江戸藩邸、さらには老中の[[秋元喬知]]にまで訴える有様であった。これに危機感を抱いた川井は11月26日、農民側の代表者3名を捕らえて死罪とし、さらにその妻子を追放して家財を全て没収するという強硬手段をとったが、農民側は勢いを盛り返して再度幕府に訴え出た。ことここに至って幕府の裁断により、正徳2年([[1712年]])7月22日、川井父子は死罪、忠位も失政を咎められて[[改易]]となり、ここに北条藩は廃藩となった([[万石騒動]])。
 
その後、忠位は[[屋代氏]]の祖先の功績などを考慮されて3000俵の知行を与えられ、[[旗本]]として存続した。正徳4年(1714年)2月10日、68歳で死去した。嫡男の[[屋代忠知|忠知]]は忠位より先に没していたので、室賀姓を名乗っていた六男の[[屋代正勝|正勝]]が屋代家に復し家督を継いだ。
 
{{北条藩主|屋代氏|3代|1663年 - 1712年}}
 
{{DEFAULTSORT:やしろ たたたか}}
[[Category:屋代氏|たたたか]]
[[Category:朝倉氏]]
[[Category:江戸の大名安房北条藩主|屋03]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:1647年生]]