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== 沿革 ==
[[1889年]]に[[小山正太郎]]、[[浅井忠]]らによって結成された[[明治美術会]]は、[[白馬会]]の独立などで勢力が衰え、[[1901年]]に解散したが、ヨーロッパから帰国した同会の新進作家、[[吉田博]]、[[
[[1902年]]1月、第1回展を[[上野恩賜公園|上野公園]]5号館で開催する。第2回展は、[[小杉未醒]]、[[石井柏亭]]、[[高村真夫]]らが出品。第3回展は、フランス留学から1904年に帰国した[[鹿子木孟郎]]が出品。第5回展には、フランス留学から1905年に帰国した[[中村不折]]が出品するに及んで、白馬会に対する洋画界の二大潮流を形成するに至った。
[[1957年]]、「太平洋美術会」と改称。[[1975年]]には社団法人化した。▼
当初は、鹿子木や不折が師事した[[ジャン・ポール・ローランス]]のアカデミックな画風で、白馬会系の外光表現と対照された。
▲[[1957年]]、「太平洋美術会」と改称。[[1975年]]には[[社団法人]]化した。
== 太平洋画会研究所 ==
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