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[[東京]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]に生まれる。
 
1908年(明治41年(1908年)新派の[[喜多村緑郎]]の弟子となり、[[本郷座]]『雪子夫人』の酒屋の小僧で初舞台。1913年(大正2年(1913年)には幹部に昇進する。[[大正]]4年、[[泉鏡花]]作『[[日本橋 (戯曲)|日本橋]]』の主役・お千世を勝ち取り、その美貌が話題となる。これが出世作となって、一躍新派の人気女形となる。
 
しかし当時[[歌舞伎]]と[[新劇]]の間にあって退潮傾向にあった新派に焦燥感を覚えた花柳は、やがて「本流新派」からの独立をめざした試行錯誤を繰返すようになる。まず1921年(大正10年(1921年)には[[小堀誠]]や[[英太郎 (新劇座)|英太郎]]らと[[新劇座]]を結成。1927年(昭和2年(1927年)には本拠地を浅草の[[松竹座]]に移して[[松竹新劇団]]を結成した。苦心の甲斐あって、1931年(昭和6年に[[明治座]]で喜多村をはじめ[[伊井蓉峰]]や[[河合武雄]]らと共演した[[瀬戸英一]]作『二筋道  花柳巷談』が大成功、これが新派の復興をもたらした。1939年(昭和14年(1939年)には[[伊志井寛]]、[[柳永二郎]]、[[大矢市次郎]]、[[川口松太郎]]らとともに「新生新派」を結成、本流新派から完全な独立を果たした。
 
またこの年、[[溝口健二]]監督に乞われて映画『[[残菊物語]]』に主演、悲劇の歌舞伎役者・[[尾上菊之助|二代目尾上菊之助]]を演じた。専門の女形ではなく[[立役]]の、それもこれまた専門ではない歌舞伎の役者を演じるという、大変な苦労となったが、観客は白塗りの花柳章太郎を絶賛。花柳はこれで美形の二枚目としての新境地を開いた。
 
1952年(昭和27年(1952年)の新派大同団結以後は座頭となって劇団を統率し、[[水谷八重子 (初代)|初代水谷八重子]]との名コンビによって次々に傑作を世に送りだした。晩年には新派からは喜多村につぐ二人目の[[人間国宝]]に認定、[[文化功労者]]にも選定された。その他数々の賞を受け、「花柳賞太郎」の異名をとるほどだった。
 
1965年(昭和40年(1965年)1月、年明けから[[新橋演舞場]]で文化功労者選定を記念した舞台に立っていたが、5日朝に気分が悪くなり[[東京大学医学部附属病院|東大病院]]に入院した。[[肺炎]]だったが、同日夜半に[[心筋梗塞]]を起こして急死、70歳だった。4日夜の部の川口松太郎作『寒菊寒牡丹』が最後の舞台となった。今際の際まで代役は大丈夫なのか、衣装はどうなのか、と舞台のことばかりを案じる最期だった。
 
== 当たり役 ==