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[[1138年]]、47世[[座主|天台座主]]となったが3日で退任し、厚い帰依を寄せていた[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]が住む[[鳥羽離宮]]の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となった。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。
 
[[保延]]6年(([[1140)年]])[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]、覚猷は90歳近い高齢で死去した。その際、弟子から遺産分与に関する遺言を求められ、「遺産の処分は腕力で決めるべし」と遺したと伝えられている。
 
== 人物像・戯画 ==
[[ファイル:Chouju sumou.jpg|250px|right|thumb|『鳥獣人物戯画』より]]
覚猷の画は、[[ユーモア]]と風刺精神に富んでおり、戯画と呼ばれる。[[遺言]]の逸話が示すように、覚猷自身、笑いのセンスに長けた人物のようであり、『[[宇治拾遺物語]]』にも覚猷のいたずら好きで無邪気な人柄が描かれている。『[[古今著聞集]]』では、[[弟子]]である侍法師の絵を道理に合わないと非難するが、侍法師は「おそくづの絵」([[春画]])は誇張しなければ面白くないという例を出して反論し、覚猷は逆にやり込められてしまったという逸話が載っている。また、覚猷は仏教界の要職を歴任しながら、当時の仏教界と政治のあり方に批判的な眼を持っていたともされている。遺産分与に関する遺言の[[逸話]]に関して、[[松山文雄著『漫画学校』p85で]]は「これは貴族や僧侶の権謀衛策やこびへつらいの生活にたいする風刺ともとれ、強いものがとるという、権力の横行にたいするあてつけともとれて、おもしろい逸話です<ref name=matsuyama>[[#松山|松山『漫画学校』(1950)p.85]]</ref>分析され記しており、その風刺精神は当時の自身を取り巻く世情と密接に関係していたことが予想される。
 
国宝『[[鳥獣人物戯画]]』(鳥獣戯画)、『[[放屁合戦]]』、『[[陽物くらべ]]』などが伝鳥羽僧正作とされている。いずれも一見単純な明るい笑いの画のようでありながら、深い批判精神を含む作品群であり、鳥羽僧正の作に擬せられている。実のところ、美術史学上、覚猷をこれらの絵画の作者とする確証はないとされている。ただし、これらの絵画は覚猷の画風をよく表しているともいわれ、鳥獣人物戯画の一部を覚猷の筆とする見解もあている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[松山文雄]]|year=1950|month=|title=漫画学校|publisher=[[大雅堂]]|series=|isbn=|ref=松山}}
 
== 関連項目 ==
* [[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]
* [[漫画]]([[鳥羽絵]])
 
{{先代次代|[[天台座主]]|第47世:1138年|[[忠尋]]|[[行玄]]}}
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