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|各国語表記 = Alexander Dubček
|画像 = Vasil Bilak1a.jpg
|画像説明 = ヴァ
|国略称 = {{CSK}}
|生年月日 = [[1917年]][[8月11日]]
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}}
'''ヴァ
==来歴==
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1968年の「プラハの春」では、改革に懸念を抱く保守派に属し、[[ワルシャワ条約機構]]軍が8月に行ったチェコスロバキアへの軍事介入を要請する書簡に署名した一人で<ref>Kieran Williams, ''The Prague Spring and its aftermath: Czechoslovak politics 1968-1970'', Cambridge University Press, 1997.</ref>、その後の「正常化」路線を積極的に進め、「署名者の一人」と呼ばれた。軍事介入後の1968年11月、チェコスロバキア共産党中央委員会書記となり、共産党政権崩壊時まで国の外交政策とイデオロギー政策に影響力を行使した。
[[1989年]]の[[ビロード革命]]にともなう政権崩壊で、同年[[12月]]にチェコスロバキア共産党およびスロバキア共産党を除名され政界を追放された。当時スロバキア共産党の若手政治家だったヨゼフ・シェウツが持つブラチスラヴァ旧市街区チムラヴィナ通りの別邸に身を寄せ、現在も同所で生活している。これまでに共産党政権時代の行為について有罪判決を受けたことはない。[[2011年]][[1月]]にスロバキア政府の特別検察官は、ビリャークの処罰に重要な証言を行う予定だったチェコ国内の証人の出廷が不可能になったとして、裁判の中止を決めた。
==出典==
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{{DEFAULTSORT:ひりやあく うあし
[[Category:1917年生]]
[[Category:存命人物]]
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