「ペーター・ファン・ペルス」の版間の差分

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[[アンネの日記]]にペーターのことが書かれるのは、1942年8月14日付けの記述が最初である。しかしこのときアンネはペーターについて「グズで[[はにかみ]]屋で不器用」「面白い遊び相手にはなりそうにありません」などと書いており、第一印象はかなり悪かったようだ。またそれ以降もしばしば「彼を相手にする人はいません」などと冷たい書き方をしている。しかし1944年に入ったころからアンネはペーターと一緒に過ごすことが多くなり、日記も彼に関する記述が増えていく。彼を表す表現も「人一倍内気」などと優しくなり、さらに2月半ば頃からはペーターを本格的に異性として意識する記述が増えていく。2月27日付けの記述では「朝早くから夜遅くまで、ペーターのことを考えるばかりで他のことは手に付きません。寝るときは彼の面影をまぶたに描きながら眠り、彼のことを夢に見、目を覚ました時にも彼が私を見つめているのを感じます」「私の良識なるものがいつまでこの強いあこがれを抑えておけるものか自分でもわかりません」と書かれている。そして1944年4月16日付けの記述ではペーターからアンネに初めて[[キス]]があった事が書かれている。さらに二人が性的なことに関心を持っていると思われるような記述も散見されるようになる。アンネとペーターの関係は二人の両親初め他の隠れ家メンバーにも公然となっていたようだ。
 
しかし1944年8月4日、アンネとペーターの関係は唐突に終わりを告げた。[[カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアー]][[親衛隊曹長]]率いる[[ナチス・ドイツ]]の警察部隊がアンネたちの隠れ家に踏み込んだためであった。ペーターとアンネは、家族もろとも[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(SS)]]に拘束された。9月には隠れ家の全員が[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所]]へ送られた。10月にはペーターの父ヘルマンがガス室送りにされたが、ペーターは、1945年1月16日に[[マウトハウゼン強制収容所]]へ移されることとなった。マウトハウゼンへは「[[死の行進]]」をさせられた。どうにかしてマウトハウゼンには到着したペーターだったが、収容所の過酷な環境に生き抜くことはできず同地で死亡した。[[赤十字社]]報告によるペーターが死んだのは1945年5月5日だったという。これはマウトハウゼン収容所が[[アメリカ軍]]によって解放される当日(解放3日前との記録もある)のことであった。
 
なお恋人のアンネは、1945年3月頃に不衛生な[[ベルゲン・ベルゼン強制収容所]]において[[チフス]]により先立っていた。