「七王国」の版間の差分

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[[帝政ローマ]]支配下の[[属州]][[ブリタンニア]]ではキリスト教の布教がローマ人の入植とともに広まっていたが、[[5世紀]]にブリタンニアが放棄されると廃れてしまっていた。七王国時代の初期の王が[[古代ゲルマン]]の多神教信仰であったが、[[アイルランド]]から[[キリスト教]]が伝播されてくる。このキリスト教は大陸のカトリックの発達とは関係なく独自に発達した[[ケルト系キリスト教]]であり、[[イングランド]]へは[[6世紀]][[聖コルンバ]]により最北部にある[[ノーサンブリア]]から広まった。
 
これに対してカトリック側が再び上陸する。教皇[[グレゴリウス1世]]は[[聖アウグスティヌス]]をブリテン島に遣わし、[[エゼルベルト (ケント王)|エゼルベルト]]の統治する[[ケント王国]]へ伝道、エゼルベルトの改宗に成功する。そして[[聖パウリヌス]]が[[ノーサンブリア]]へ伝道、[[エドウィン王 (ノーサンブリア王)|エドウィン王]]を改宗させる事に成功した。その後異教徒であった[[マーシア]]王[[ペンダ (マーシア王)|ペンダ]]の隆盛で速度が停滞するものの、[[オスワルド王 (ノーサンブリア王)|オスワルド王]]の治世に[[リンデスファーン修道院]]が建設、その影響力は隣国[[マーシア]]、[[イースト・アングリア]]まで及んだ。この影響力と比較してケルト系キリスト教は太刀打ちできず、[[ウィットビー教会会議]]を期に減退していった。
 
{{ブリテンの歴史}}