「ジェームズ・バトラー (第2代オーモンド公)」の版間の差分

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[[1683年]]に騎兵隊長に就任、[[1685年]]に[[イングランド王国|イングランド]]王[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の即位直後に起こった[[モンマス公爵ジェームズ・スコット|モンマス公]]の反乱鎮圧に貢献した。[[1688年]]に父方の祖父が亡くなりオーモンド公位を継承、同年に[[名誉革命]]が勃発するとジェームズ2世を裏切り[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]に寝返り、恩賞として翌[[1689年]]に[[大司馬 (イングランド)|大司馬]]、近衛騎兵隊長に任命された。[[1690年]]に[[ボイン川の戦い]]でジェームズ2世を迎撃した後は大陸に渡り[[大同盟戦争]]に従軍、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の治世になると[[スペイン継承戦争]]にも参戦、[[ジョージ・ルーク]]指揮下の海軍に所属し[[カディスの戦い]]、[[ビーゴ湾の海戦]]で手柄を挙げた。[[1703年]]から[[1707年]]まで[[アイルランド]]総督を務めている。
 
[[1710年]]、イギリスの総選挙で[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に勝利すると[[1713年]]までアイルランド総督に再任、翌[[1711年]]、大陸のイギリス軍総司令官[[マールバラ公]][[マールバラ公ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)|ジョン・チャーチル]]が失脚すると後任の司令官に就任、北[[フランス王国|フランス]]戦線で[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]と共にフランス軍と相対した。しかし、マールバラ公の失脚はトーリー党とホイッグ党の政争が絡んだ事情からであり、政権を取った和平派のトーリー党はオーモンドに積極的な戦闘を控えるように指示、オーモンドも消極的な戦に終始、[[1712年]]にイギリスとフランスの単独講和が成立すると大陸からイギリス軍を引き上げさせ帰国した。イギリス軍のいなくなった同盟軍はフランス軍に敗北([[ドゥナの戦い]])、スペイン継承戦争の終結に繋がった。
 
ところが、トーリー党は王位継承問題で内部分裂を起こし、アン女王の死後即位した[[はとこ|又従兄]]の[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]と結びついたホイッグ党によって主要党員が弾劾、罷免された。オーモンドもホイッグ党に弾劾され全ての官職と公位及び財産を没収され、[[ジャコバイト]]と結んで反乱を起こしたが失敗してフランスへ亡命した。その後[[四カ国同盟戦争]]に従軍したりジャコバイトの再度の反乱に加わったが、イギリスへ戻れないまま[[アヴィニョン]]で80歳で死去。3度の結婚で子供が無かったため、イギリスに残った弟の[[チャールズ・バトラー (第3代オーモンド公)|チャールズ]]がオーモンド公位を継承した。