「国共合作」の版間の差分

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====国共内戦の激化====
中華民国の国家主席に就任後、[[蒋介石]]は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、[[毛沢東]]が指揮する[[中国共産党]]は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には[[江西省]]に「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時政府]]」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は[[1930年]]12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込み、共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安への逃避行(共産党の言い方では[[長征]])でしのぎ、西安事件で復活の切っ掛けを掴んだ。
 
====日本による満州の掌握====
[[Image:IJA Infantry in Manchuria.jpg|thumb|220px|right|満州事変]]
同時期には[[日本]]の[[関東軍]]が、[[1931年]]9月に勃発した[[満州事変]]を契機として[[満州]]地域一帯を掌握し、その後の[[1932年]][[3月1日]]に、かつて[[清朝]]最後の[[皇帝]]であった宣統帝の[[愛新覚羅溥儀]]を「[[執政]]」に推戴する[[傀儡国家]]の[[満州国]]を建国した。
 
これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は抗日より中国共産党の掃討が大事として掃討作戦を優先し、強化した。
 
====国共再合作への道====
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西安事件で内戦停止と一致抗日を約束させられた[[蒋介石]]は、南京に帰還すると、直ちに中央軍を陝西省から撤退させる声明を出した。1936年12月29日、[[国民党中央常務委員会]]は、反乱軍討伐の停止、[[張学良]]と[[楊虎城]]討伐の大本営である討逆大本営(総司令は[[何応欽]])の解消などを承認した。1937年1月6日には、共産軍討伐前線司令部である[[西安]]の掃共行営が廃止され、十年間続いた国共内戦は事実上停止された。[[1月8日]]には親日派の中心人物である[[張群]][[外交部長]](外相)が罷免され、反日・欧米派に属する[[王寵恵]]が就任した<ref name="ookubo"/>。
 
[[2月10日]]、共産党中央は[[中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議|国民党三中全会]]に対する通電を発して、共産党が国民党と国民政府の指導権を認め、その指揮権に服従することを表明し、抗日のために第二次国共合作を要求した。[[2月15日]]から開かれた国民党三中全会では、①紅軍の取り消し②ソビエト政府の取り消し③赤化宣伝の中止④階級闘争の中止の四条件からなる[[中国国民党第五期第三次中央執行委員全体会議#中国共産党に対する三中全会の決議|赤禍根絶決議]]が採択され、共産党に対して表面的には非妥協的であったが、失った領土の回復、各党各派を入れた国民大会の招集、共産党の要求する和平会談の受諾が決められた。赤禍根絶案が決議された[[2月22日]]、蒋介石は、抗日民族運動に関する言論・出版・行動の自由、政治犯の釈放、各方面の人材登用、一致団結して国家目前の困難解決の意向を明らかにして、抗日民族統一戦線を暗に容認した。さらに「赤匪」とか「共産匪」とかいう用語の使用が禁じられ、少数のあまり重要でない政治犯が釈放された。共産党中央宣伝部が[[4月3日]]付で発表した「国民党三中全会後のわれらの任務に関する宣伝大綱」のなかで、国民党三中全会は極めて重要な意義を有する会議であったことを認め、①国民党が政策転換の開始を表明した②内戦停止、民主制度の拡大、言論開放、政治犯釈放を承認した③赤禍根絶決議はわが三中全会へ与えた通電と原則的に接近しており、国共間の折衝進行の可能性を表明した④このことは国共合作の原則がすでに確立したことを意味する⑤対日戦への決意を表明した、と三中全会を高く評価した<ref name="ookubo"/>。
 
共産党代表の[[周恩来]]と国民党代表の[[張冲]]の間で和平交渉が行われ、1937年[[3月1日]]には、内戦停止・一致抗日および国民大会に各方面の人材を収容すること、の二原則が成立し、[[3月4日]]には、改編共産軍について、新駐在地点の指定、南京の軍事委員会への指揮服従、国民政府からの軍事費支給などが確約された。その結果、ソビエト区に対する経済・郵便・電信・交通の封鎖が部分的に解除され、数百人の青年共産党員、多数の若い急進分子、老練な党工作者、優秀な技術者たちが中国各都市から徒歩で[[延安]]に赴いた。また三個師団分ではあったが、国民党政府は共産軍に対して軍用金と弾薬を支給した<ref name="ookubo"/>。
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====第二次国共合作の成立====
[[1937年]][[7月7日]]、[[盧溝橋事件]]が起こると、[[7月8日]]、共産党は局地解決反対を全国に呼びかけ、[[7月11日]]、[[周恩来]]が抗日全面戦争の必要を[[蒋介石]]に強調するなど、共産党は国民党に対日抗戦を迫った。[[7月19日]]、日中全面戦争に極めて慎重であった蒋介石は、「最後の関頭」演説を公表して抗日の決意を表明したが、第29軍を[[北平]]・[[天津]]から撤退させて日本軍と妥協しようとした。また、[[冀察政務委員会]]も日本軍と妥協を図って積極的抗戦を避けた。このため共産党は、[[7月23日]]に「第二次宣言」を発して、全面抗戦・徹底抗戦の実行を強調した<ref name="ookubo"/>。
 
[[7月21日]]、蒋介石に反対していた西南派の[[李宗仁]]・[[白崇禧]]・[[黄旭初]]らも蒋介石擁護の意向を表明した。また、7月から8月にかけて[[枕鈞儒]]・[[章乃器]]らの「抗日救国七君子」をはじめ、[[郭沫若]]や[[陳独秀]]など、三百人あまりの政治犯が釈放された。[[7月28日]]、北支における日中両軍の全面衝突が起こると、蒋介石は最後まで抗戦する決意を再び表明した。南京政府の抗日体制は強まり、[[8月8日]]、蒋介石は「全将兵に告ぐ」と題する演説を行い、抗戦の決意を三度表明した<ref name="ookubo"/>。
 
[[8月13日]]、[[第二次上海事変]]が勃発すると、国共合作と抗日民族統一戦線は飛躍的に発展した。[[8月22日]]、国民政府は、紅軍を改編して国民革命軍第[[八路軍]]とすることを正式に公布し、[[朱徳]]を八路軍総司令に、[[彭徳懐]]を同副指令に任命し、三個師をその指揮下に入れた。国民政府から武器、弾薬、資金が補給された。[[9月9日]]、南京政府は[[国防最高会議]]を組織し、同会議の主席に蒋介石、副主席に[[汪兆銘]]が就任し、周恩来、朱徳らも参加した。[[9月22日]]、共産党中央委員会の「国共合作に関する宣言」が発表され、[[9月23日]]、蒋介石の「国共両党の第二次合作に関する談話」が発表された<ref name="ookubo"/>。
 
共産党は「国共合作に関する宣言」において、「国難極端に厳重にして民族生命の存亡の危機にあたって、我等は祖国の危亡を回復救助するために平和統一・団結禦侮の基礎の上に、すでに中国国民党と了解を得て共に国難に赴くこととなった」と国共再合作の了解が成立した意義の重大性を強調し、①[[孫文]]の[[三民主義]]の徹底的実現のために奮闘する②国民党政権を破壊する一切の暴動政策および赤化運動を取り消し、暴力をもって地主の土地を没収する政策を停止する③現在のソビエト政府を取り消し、民権政治を実現して全国政権の統一を期する④紅軍の名義および番号を取り消して[[国民革命軍]]に改編し、国民政府軍事委員会の指揮を受け、その出動命令を待って抗敵前線の責任を分担する、ことを国民党と全国民に誓った<ref name="ookubo"/>。
 
[[9月27日]]、[[毛沢東]]は「国共合作成立後のさし迫った任務」と題する声明を発表し、国共合作が成立したことの意義を確認した。[[10月2日]]、華中・華南に遊撃中の中共軍約1万が「新四軍」として再編成されることが国民政府から指示され、軍長に[[葉挺]]、副軍長に[[項英]]が任命された。南京陥落後の[[12月25日]]、共産党は「時局に対する宣言」を発表して国共両党の提携と徹底抗戦を改めて声明した。
 
 
{{要出典範囲|date=2011年11月|第二次国共合作について相対立する2つの見解を以下に記す。見解1はこれまで知られた一般的なもので国共合作が成立したとし、見解2は最近の研究成果で国共合作の成立は疑わしい‐成立していないとするものである}}
 
;【見解1】
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中国共産党が、中国国民党の弱体化を狙って行ったという面もある。実際に日本軍と中国国民党の[[中華民国軍]]が戦っている間に、中国共産党は日本軍との前線の後方の非戦闘地域で勢力を伸ばし兵力を増強した。
 
{{要出典範囲|date=2011年11月|[[日本]]側は「[[イデオロギー]]的に全く共存できない二者は団結できない」と考えていたため、第二次国共合作の成立を全く予想できなかった}}
 
;【見解2】