「貞鏡院」の版間の差分

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'''貞鏡院'''(ていきょういん、[[天保]]5年([[1834年]]) - [[明治]]18年([[1885年]]))は、[[江戸時代]]の女性で、[[近江国|近江]][[彦根藩]]主・[[井伊直弼]]の[[正室]]。
 
== 生涯 ==
[[丹波亀山藩]]主・[[松平信豪]]の次女として生まれる。母は[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]主・[[酒井忠実]]の娘・采。初名は'''多喜'''で、その後、'''貞'''、'''昌子'''と改名した。<br />
 
[[弘化]]3年([[1846年]])1月、32歳の直弼は部屋住みの身から異母兄彦根藩主[[井伊直亮]]の世子となり、正室を迎えることとなった。このとき将軍家からの縁談(将軍[[徳川家慶|家慶]]の養女精姫)も持ち上がったが、藩主の直亮はこの縁談を快く思わず、急に[[丹波亀山藩]]との縁組を進め、同年10月13日には幕府[[老中]]に対して縁組の願書を提出した。このとき昌子は12歳であった。<br />
将軍家との縁談を断って間もなくの[[弘化]]4年2月に、井伊家は相模湾の警護を命ぜられた。このとき世間に流布された落首に「掃部さん表きらいで裏がすき」というのがあった。表(将軍家)との縁組を断って裏が(浦賀)に行くことを命じられたという意味である。<br />
 
婚礼が行われたのは[[嘉永]]5年([[1852年]])8月19日のことで、昌子は18歳、縁組が整ってから6年が経過していた。この縁組が将軍家との縁談を断るために急遽整えられたものであるため、兄・直亮の藩主時代には婚礼の話が進まなかったと思われる。
将軍家との縁談を断って間もなくの[[弘化]]4年2月に、井伊家は[[相模湾]]の警護を命ぜられた。このとき世間に流布された落首に「掃部さん表きらいで裏がすき」というのがあった。表(将軍家)との縁組を断って裏が(浦賀)に行くことを命じられたという意味である。<br />
この間、[[嘉永]]3年9月に直亮が死去し、直弼が彦根藩主となっている。
 
婚礼が行われたのは[[嘉永]]5年([[1852年]])8月19日のことで、昌子は18歳、縁組が整ってから6年が経過していた。この縁組が将軍家との縁談を断るために急遽整えられたものであるため、兄・直亮の藩主時代には婚礼の話が進まなかったと思われる。この間、[[嘉永]]3年9月に直亮が死去し、直弼が彦根藩主となっている。
 
明治18年(1885年)、51歳で死去した。墓所は[[東京都]][[世田谷区]]の[[豪徳寺]]。戒名は貞鏡院殿柳室智明大姉。
 
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[[Category:井伊氏]]
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