「ジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌ」の版間の差分

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== 生涯 ==
ノルブランは1745年に[[ミシー=シュル=ヨンヌ]]で生れ、1760年代前半に画家として生計を立て始めた(判明している最初の作品は1763年に描かれている)。その後、彼は[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]や[[アントワーヌ・ヴァトー|ヴァトー]]に影響されるようになった。1769年頃、ノルブランは[[フランチェスコ・カサノヴァ]](色事師[[ジャコモ・カサノヴァ]]の弟)の工房に弟子入りし、1769年から1770年までパリの[[絵画・彫刻アカデミー]]に在籍し、1770年から1771年まで[[ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー]]や[[ジョゼフ=マリー・ヴィアン]]に師事した。1771年から1772年頃までは、ノルブランはパリ、ロンドン、[[ドレスデン]]、[[スパ (ベルギー)|スパ]]で仕事をこなし、おそらくこの時期は[[クリスティアン・ヴィルヘルム・エルンスト・ディートリヒ]]の工房にいた。1772年、ノルブランはポーランドの[[アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ]]公爵と出会い、その後2年のあいだ公爵の旅行の伴をしたうえ、公爵に誘われるままポーランドへとやってきた。1774年から、ノルブランはポーランド有数の[[マグナート]]である[[チャルトリスキ家]]お抱えの宮廷画家、そして同家の子女たちの家庭教師を務めることになった。彼の初期作品で最も有名なのは[[イグナツィ・クラシツキ]]の疑似英雄詩「ムィシェイダ」のために描いた挿絵であった。彼は[[プワヴィ]]や[[ポヴォンスキ墓地|ポヴォンスキ]]といったチャルトリスキ家の領地で絵画制作や室内装飾にいそしんだ。後には[[ニェボルフ]]にあった[[ラジヴィウ家]]のアルカディア宮殿の装飾を依頼されたり、ポーランド王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]からの仕事の依頼も舞い込んでいる。
 
1790年、ノルブランはワルシャワに移り、ここで個人経営の美術学校を開いた。同市に移住したことにより、ノルブランは[[ポーランド・リトアニア共和国]]末期の歴史的な諸事件をその目で見ることになり、それらの事件を自らの筆で活写する機会を得た。彼は素早いデッサンで[[5月3日憲法]]の成立とその廃止までの経過を描き、その直後に起きた[[コシチュシュコ蜂起]]の生き証人となり、絵画によって蜂起の様子を記録するなど、この時期に起きた大事件の数々を絵画を通じて不滅のものにした。彼が作品として描いたのは1794年4月の[[ワルシャワ蜂起 (1794年)|ワルシャワ蜂起]]から、それに続くワルシャワの旧市場町での[[タルゴヴィツァ連盟]]参加者たちの処刑、[[ラツワヴィツェの戦い]]、そして[[プラガの戦い|プラガの虐殺]]までであった。ノルブランは1804年にフランスに帰国した後もポーランドでの体験や経験をもとにした絵画制作を続けたが、[[ナポレオン戦争]]など自国の同時代の出来事をも描いた。ノルブランは1830年にパリで没した。
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