「崇福寺 (福岡市)」の版間の差分

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== 沿革 ==
*[[1240年]]([[仁治]]元年)、[[太宰府市|太宰府]]の横岳に[[湛慧]]により建立される(現在の[[筑紫台高等学校]]近くに別院として現存)。
*翌[[1241年]]には[[円爾]]が開堂演法し、[[無準師範]]から与えられた「勅賜萬年崇福禅寺」の八大字を揚げて寺名とした。
*[[1243年]]([[寛元]]元年)には、[[承天寺]]と並んで[[官寺]]に列せられ、[[後嵯峨天皇]]より「西都法窟」の勅額を下賜される。
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*[[明治|明治時代]]には[[廃仏毀釈|廃仏毀釈運動]]の煽りを受けて荒廃する。
*[[1895年]](明治28年)に渡辺玄外が住職となって境内が再整備される。
*[[1945年]]([[昭和]]20年)7)61319日、豪商[[神屋宗湛]]ゆかりの茶室で国宝の「[[湛浩庵]]」がアメリカ軍の空襲で焼失する。
*[[1963年]](昭和38年)、湛浩庵が宗湛庵として復元される。
*[[2005年]]([[平成]]17年)5月9日、寺の修行僧によって放火され、隠寮や書院など3棟700平方メートルが全焼した。