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'''山路 主住'''(やまじ ぬしずみ、[[宝永]]元年([[1704年]]) - [[安永]]元年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]([[1773年]][[1月3日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[和算|和算家]]([[数学者]])、[[天文学者]]。[[本姓]]は[[平氏]]。[[幼名]]は久次郎。字は君樹。弥左衛門と称し、連貝軒と号した。
 
[[中根元圭]][[松永良弼]][[久留島義太喜内]]らに[[関孝和|関流]]の[[和算]]を学んだ。関流三伝。師の中根元圭[[徳川吉宗]]の側近として[[西暦]]によるへの[[改暦]]を目論んでいたこともあり、[[宝暦]]の改暦では、の際に[[天文方]][[西川正休]]・[[渋川則休]]の手伝として上京している。しかし改暦で西洋暦取り上げられることはなく、結果として[[宝暦暦]]は[[貞享暦]]の改変に留まった。
 
改暦後[[明和]]元年([[1764年]])に天文方に命さじらており、た。改暦後も息子である[[山路之徽]]や[[仙台藩]]の門人である[[戸板保佑]]らと共に西洋暦研究にあたり、崇禎暦書による西洋暦を完成させている。[[明和]]元年([[1764年]])には[[天文方]]に任じられた。この暦は天文方山路家吉田家などで検証が行わていが、後の。[[寛政]]の改暦では、[[麻田剛立]]らの研究していたによる暦象考成後編による西洋暦の方が優れていたことからため、今回も採用されることはなかった。
 
また関流の和算を集大成し[[免許#芸道における免許|免許]]制度を確立するなど、関流和算を広く普及させるための基盤を作り上げており、[[藤田貞資]][[安島直円]][[有馬頼ゆき|有馬頼徸]][[松永貞辰]][[船山輔之]][[石井雅穎]]など、関流の発展に大きな影響を及ぼした門人を多く輩出している。
 
[[数学]]の業績にはあまり独創的なものはないが、[[循環小数]]の研究は有名である。
 
==関連項目==