「オットー4世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分
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'''オットー4世'''(Otto IV,[[1175年]] - [[1218年]][[5月19日]])は[[ヴェルフ家]]出身の[[神聖ローマ皇帝]](在位:[[1198年]] - [[1215年]])。[[バイエルン大公|バイエルン]]公兼[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]と[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の娘[[マティルダ・オブ・イングランド|マティルダ]]の次男。[[ライン宮中伯]][[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]]の弟、リューネブルク公[[ヴィルヘルム (リューネブルク公)|ヴィルヘルム]]の兄。[[シュヴァーベン大公]]でもあった。
[[1197年]]、[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]が死去すると、後継者の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が幼少だった
しかし、即位後に大規模な[[イタリア遠征]]を計画したため、教皇と対立して[[破門]]され、ドイツ[[諸侯]]の支持を失ってしまう。更に[[成人]]したフリードリヒ2世を皇位に推す[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]と対立して叔父のイングランド王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]と協力して争うが、[[1214年]][[7月27日]]に[[ブーヴィーヌの戦い]]でフランス軍に大敗する。諸侯に完全に見放されたオットー4世は翌1215年、廃位の上に追放され、1218年に[[ブラウンシュヴァイク]]で病死した。
1214年[[4月19日]]に[[ブラバント公]][[アンリ1世 (ブラバント公)|アンリ1世]]の娘[[マリア・フォン・ブラバント|マリア]]と再婚するが、2度の結婚で子がなかったため、甥の[[オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)|オットー]]が遺領を継いで[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家]]の祖となった。
{{神聖ローマ皇帝|14代|1198年 - 1215年}}
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