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[[Image:Bathory.jpg|thumb|right|200px|バートリ・ジグモンド]]
'''バートリ・ジグモンド'''(Báthory Zsigmond, [[1572年]] - [[1613年]][[3月27日]])は、ハンガリー人の[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]](在位:[[1581年]] - [[1597年]][[1598年]] - [[1599年]][[1601年]] - [[1602年]])。
 
== 生涯 ==
ジグモンドは1572年、[[バートリ家]]のソムリヨ系統に生まれた。トランシルヴァニア公[[バートリ・クリシュトーフ]]の息子で、[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]の[[]]にあたる。ジグモンドは父の存命中に公に選ばれたが、父が死んだ時はまた10歳未満の少年に過ぎず、公国の統治は摂政に任させられた。
 
[[1588年]]にジグモンドは親政を開始し、[[オスマン帝国]]に敵対するキリスト教徒君主の同盟に参加した。こうしたトルコへの敵対政策は明らかに危険だったが、公国では全く憂慮されていなかった。また、[[トゥルダ]]で開催された議会はジグモンドに戴冠式に際しての宣誓文書を渡すよう要求したが、ジグモンドがこれを貸し出すのを拒むと、彼を退位させると脅かした。最終的にジグモンドは政敵に勝利し、[[1595年]]には逮捕した政敵全員を処刑した。
 
1595年、首都[[アルバ・ユリア|ジュラフェヘールヴァール]](アルバ・ユリア)で[[ワラキア]]の統治者[[ミハイ・ヴィテアズル|ミハイ勇敢公]]と条約を結んだ。この条約はワラキアがトランシルヴァニアの主権下に入ること、ジグムントはミハイ勇敢公のオスマン帝国との戦いを支援することが取り決められた。また同年、ジグモンドは[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]の従妹[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1574-1621)|マリア・クリスティーナ]]と結婚するという栄誉に恵まれた。しかし1599年には彼女と離婚している。
 
1595年8月13日、[[ネアジロヴ川]]河畔の[[カルガレニの戦い]]で、ミハイ勇敢公は[[シナン・パシャ]]の率いるトルコ軍を撃破した。ところが勝ったミハイの方では戦争を続けるだけの数の軍勢が手元におらず、トランシルヴァニアへと退却することになった。代わりに[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]に率いられた4万のトランシルヴァニア軍が加わり、連合軍は[[10月8日]]に[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]](1595年、[[10月812)、|12日]]に[[ブカレスト]](1595年10月12日)、[[ブライラ]]の諸都市を次々に解放した。ワラキア自体も1595年[[10月28日|28日]]には解放された。
 
1597年、ジグモンドはトランシルヴァニア公を退き、公位を[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王を兼ねる皇帝ルドルフ2世に譲った。それと引き換えに、ジグモンドは[[シレジア|シロンスク]]地方の[[オポーレ公国]]を獲得した。オポーレ公の座を得たことで、ジグモンドは[[神聖ローマ帝国]]の諸侯の列に加わった。しかし1598年にはトランシルヴァニア公に復帰している。
 
1598年4月、ジグモンドは再びトランシルヴァニア公を退位し皇帝ルドルフ2世にその座を譲ろうとしたが、半年後の1598年10月にはその決定を覆した。そしてその1599年にまたもや公2度目退位を放棄し行いこれを従兄の[[バートリ・アンドラーシュ]]枢機卿に与えた。[[ポーランド]]で司教を務めていたアンドラーシュの即位は、トランシルヴァニアがポーランド王[[ジグムント3世]]の影響下に入ることを意味していた。しかし、反発したミハイ勇敢公はルドルフ2世との同盟を再結成し、1599年[[10月5日]]にアンドラーシュに対する遠征を開始した。そしてアンドラーシュを討ち取り同年の11月にはトランシルヴァニアを自らの手中に収めたのである。ミハイと同時に、[[ジョルジョ・バスタ]]率いる[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の軍勢も西側からトランシルヴァニアを攻めた。
 
1600年、ジグモンドはポーランド人と[[コサック]]の軍勢を引き連れてトランシルヴァニア公の座を奪回しようとしたが、[[スチャヴァ]]で今や[[モルダヴィア]]、ワラキア、トランシルヴァニアの3国家を支配下に収めていたミハイ勇敢公に撃退された。1601年に[[クルージュ=ナポカ|コロジュヴァール]]で開かれたトランシルヴァニア議会はジグモンドをから公に復帰させられたが、彼は再びミハイ勇敢公とジョルジョ・バスタによって退けられ、2度と復帰できなかった。ジグモンドは1613年、[[プラハ]]で客死した。
 
== 関連項目 ==