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江東琴 (会話 | 投稿記録)
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[[ファイル:GabrielBethlen.jpg|thumb|right|ベトレン・ガーボル]]
'''ベトレン・ガーボル'''([[ハンガリー語]]:Bethlen Gábor;[[ルーマニア語]]:Gabriel Bethlen;[[ドイツ語]]:Gabriel Bethlen von Iktár, [[1580年]] - [[1629年]][[11月15日]])は、[[トランシルヴァニア公国|トランシルヴァニア公]](在位:[[1613年]] - 1629年)、[[オポーレ公国|オポーレ公]](在位:[[1622年]] - [[1625年]])、そして[[王領ハンガリー]]における反[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク]]反乱の指導者。[[30三十年戦争]]にも参加し、積極的に[[プロテスタント]]陣営を支援した。
 
== 生涯 ==
=== トランシルヴァニア公 ===
ベトレンは1580年、ハンガリーの由緒ある貴族ベトレン家のイクタールを領する家系に生まれた。生地はマロシイェ(現在の[[ルーマニア]]領[[イリア (フネドアラ郡)|イリア]])で、叔父のアンドラーシ・ラーザールの城があるサールヘジ(現在のルーマニア領[[ラザレア]])で教育を受けた。そのベトレンはトランシルヴァニア公[[バートリ・ジグモンド]]の宮廷に送り込まれ、そこで行われた[[ワラキア]]遠征で戦功を立てた。[[1605年]]、ベトレンは[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]がトランシルヴァニア公となるのを支援し、自分はその首席顧問官の地位におさまった。ベトレンはボチュカイの後継者となった[[バートリ・ガーボル]]公の支持者ともなったが、公が卓越した能力をもつベトレンを疎むようになると、宮廷にいられなくなって[[オスマン帝国]]トルコ人たちのもとに避難するのを余儀なくされた。
 
1613年、ベトレンはバートリ・ガーボル公と戦うべく大軍を率いてトランシルヴァニアに戻ってきたが、バートリはその年のうちに自分の2人の部下の手で殺された。こうして、ベトレンはオスマン帝国の力でトランシルヴァニア公の座にのぼった。[[ウィーン]]宮廷とつながりの強い人物がバートリの後を継ぐことを望んでいたハプスブルク家の[[神聖ローマ皇帝]]は、トルコ人の[[イスタンブル]]宮廷の同盟者であるベトレンの即位に反対した。1613年が、[[10月13日]]、コロジュヴァール(現在のルーマニア領[[クルージュ=ナポカ]])で開かれたトランシルヴァニア議会は、トルコのスルタンが選んだ新しい公をから承認した。され、[[1615年]]は、ベトレンは神聖ローマ皇帝[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]によって正式なトランシルヴァニア公と認められている。この時、ベトレンはマティアス皇帝と秘密協定を結び、オスマン帝国に対する[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の戦争を支援すると約束している。
 
前任者たちのように残虐行為や乱行を働かなかったおかげで、ベトレンは家父長的であると同時に非常に啓蒙的な[[絶対王政|絶対主義]]支配を確立することが出来た。彼は鉱山を開発し、産業を育成し、トランシルヴァニアで行われていた対外貿易の多くを政府の統制下においた。ベトレンの役人たちは沢山の物品を固定価格で買い上げてそれを外国で高く売ったので、ベトレンの時代に公国の歳入は2倍近くに跳ね上がった。ベトレンは

文化の奨励も行い、首都ジュラフェヘールヴァール(現在の[[アルバ・ユリア]])に巨大な宮殿を新築し、豪華な宮廷生活を送り、自ら讃美歌を作曲し、芸術や学問(特に自らが信奉する[[カルヴァン主義]]に関するもの)を庇護した。彼はアカデミー創設して王領ハンガリーから大勢のプロテスタント牧師や教師を呼び寄せ、そのアカデミーから多くの生徒を[[イングランド]]や[[ネーデルラント]]、ドイツのプロテスタント領邦にあるプロテスタント大学に送り込んだ。またプロテスタント牧師全員に世襲貴族の地位を与え、領主たちが農奴の子供を学校に行かせないようにすることを禁止した。
 
=== 三十年戦争 ===
[[ファイル:Bethlen-tudos.jpg|thumb|350px|ベトレンと学者たち]]
ベトレンは豊かな財源を背景に有能な傭兵軍を自分に従えて、この傭兵軍を使って自らの野心的な対外政策を推進していった。彼はオスマン帝国とは友好的な関係を保ちつつ、北と西に軍隊を進めた。
ベトレンは豊かな財源を背景に有能な傭兵軍を自分に従えて、この傭兵軍を使って自らの野心的な対外政策を推進していった。彼はオスマン帝国とは友好的な関係を保ちつつ、北と西に軍隊を進めた。ベトレンが中央ヨーロッパで[[30年戦争]]が展開されている最中の1619年から1626年にかけて、トランシルヴァニアと隣り合う王領ハンガリーへの侵入を繰り返したのには、いくつかの理由があった。ベトレンは個人的な野心に突き動かされていた面もあったが、王領ハンガリーを支配するハプスブルク帝国の絶対主義に反対してもいた。ハプスブルクは王領ハンガリーに[[対抗宗教改革]]を導入することに成功しつつあり、同地域に住むプロテスタントたちの財産を没収するようになっていた。ベトレンはプロテスタント信仰の自由を守ることに非常に敏感であった。また、ハプスブルク政府は、かつて[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]が起こした反乱を終わらせるために結んだ[[ウィーンの和約 (1606年)|ウィーンの和約]]での取り決めを無視するようになっていた。また、ハプスブルクは1615年にベトレンと交わした秘密協定をも無視してトルコとの和平を延長させ、さらにベトレンと敵対する[[上部ハンガリー]](現在の[[スロヴァキア]]とその付属地域)の太守ドルジェト・ジェルジと同盟を結ぶに至っていた。こうしたことが、ベトレンの出兵につながったといえる。
 
ベトレンが中央ヨーロッパで[[三十年戦争]]が展開されている最中の[[1619年]]から[[1626年]]にかけて、トランシルヴァニアと隣り合う王領ハンガリーへの侵入を繰り返したのにはいくつかの理由があった。ベトレンは個人的な野心に突き動かされていた面もあったが、王領ハンガリーを支配するハプスブルク帝国の絶対主義に反対していたからである。
皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]は1618年に[[ボヘミア]]で起きた反乱への対応に追われていたが、ベトレンは1619年8月に王領ハンガリーに攻め入り、9月に[[コシツェ|カッサ]](コシツェ)を占領した。そして同市において、ベトレンを支持するプロテスタントたちは、彼をハンガリーの「首長」にしてプロテスタントの擁護者である、と宣言した。ベトレンはすぐさま現在のスロヴァキア地域を完全に制圧し、10月には王領ハンガリーの首都[[ブラティスラヴァ|プレスブルク]]を陥落させた。同市にいたハンガリー宮中伯は、[[聖イシュトヴァーンの王冠]]をベトレンに差し出した。ベトレンの軍勢は[[インジフ・マティアーシュ・トゥルン]]伯爵の率いるボヘミアと[[モラヴィア]]のチェコ人等族軍に合流したが、彼ら反乱軍は11月にウィーンを陥落させようとして失敗した。ベトレンはドルジェト・ジェルジと悪名高いポーランド人傭兵部隊[[リソフチツィ]]から攻撃を受け、オーストリアから撤退せざるを得なくなった。ベトレンはハプスブルクとの和平も敵対関係の解消も厭わず、プレスブルク(ブラティスラヴァ)、カッサ(コシツェ)、ベステルツェバーニャ([[バンスカー・ビストリツァ]])などトランシルヴァニア軍が占領した地域の諸都市で交渉が行われた。当初、ベトレンが和平交渉にチェコ人たちをも参加させるよう求めたため交渉は決裂するかと思われたが、1620年1月に和約が結ばれて、ベトレンは王領ハンガリー東部の13の都市を獲得した。1620年8月20日、ベステルツェバーニャで開かれた議会で、出席した等族はオスマン帝国の同意のもと、ベトレンをハンガリー王に選出した、しかしハプスブルクとの和解を重んじ、ハンガリーの再統一を理想とするベトレンは国王選出を拒んだ。ところが結局、この国王選出が契機となって、同年の9月にはトランシルヴァニアとハプスブルクとの戦争が王領ハンガリーと[[インナーエスターライヒ]](下オーストリア)で再開された。
 
ベトレンは豊かな財源を背景に有能な傭兵軍を自分に従えて、この傭兵軍を使って自らの野心的な対外政策を推進していった。彼はオスマン帝国とは友好的な関係を保ちつつ、北と西に軍隊を進めた。ベトレンが中央ヨーロッパで[[30年戦争]]が展開されている最中の1619年から1626年にかけて、トランシルヴァニアと隣り合う王領ハンガリーへの侵入を繰り返したのには、いくつかの理由があった。ベトレンは個人的な野心に突き動かされていた面もあったが、王領ハンガリーを支配するハプスブルク帝国の絶対主義に反対してもいた。ハプスブルクは王領ハンガリーに[[対抗宗教改革]]を導入することに成功しつつあり、同地域に住むプロテスタントたちの財産を没収するようになっていた。り、ベトレンはプロテスタント信仰の自由を守ることに非常に敏感であった。また、ハプスブルク政府は、かつて[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]が起こした反乱を終わらせるために結んだ[[ウィーンの和約 (1606年)|ウィーンの和約]]での取り決めを無視するようになっていた。またハプスブルクは1615年にベトレンと交わした秘密協定をも無視してトルコとの和平を延長させ、さらにベトレンと敵対する[[上部ハンガリー]](現在の[[スロヴァキア]]とその付属地域)の太守ドルジェト・ジェルジと同盟を結ぶに至っていた。こうしたことが、ベトレンの出兵につながったといえる。
 
皇帝[[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]は[[1618年]]に[[ボヘミア]]で起きた反乱への対応に追われていたが、ベトレンは1619年8月に王領ハンガリーに攻め入り、9月に[[コシツェ|カッサ]](コシツェ)を占領した。そして同市において、ベトレンを支持するプロテスタント達は、彼をハンガリーの「首長」にしてプロテスタントの擁護者であると宣言した。ベトレンはすぐさま現在のスロヴァキア地域を完全に制圧し、10月には王領ハンガリーの首都[[ブラティスラヴァ|プレスブルク]]を陥落させた。同市にいたハンガリー宮中伯は、[[聖イシュトヴァーンの王冠]]をベトレンに差し出した。
 
ベトレンの軍勢は[[インジフ・マティアーシュ・トゥルン]]伯爵の率いるボヘミアと[[モラヴィア]]のチェコ人等族軍に合流したが、反乱軍は11月にウィーンを陥落させようとして失敗、ベトレンはドルジェト・ジェルジと悪名高いポーランド人傭兵部隊[[リソフチツィ]]から攻撃を受け、オーストリアから撤退せざるを得なくなった。ベトレンはハプスブルク家との和平に切り替え、プレスブルク(ブラティスラヴァ)、カッサ(コシツェ)、ベステルツェバーニャ([[バンスカー・ビストリツァ]])などトランシルヴァニア軍が占領した地域の諸都市で交渉が行われた。
 
当初、ベトレンが和平交渉にチェコ人達も参加させるよう求めたため交渉は決裂するかと思われたが、[[1620年]]1月に和約が結ばれて、ベトレンは王領ハンガリー東部の13の都市を獲得した。[[8月20日]]、ベステルツェバーニャで開かれた議会で、出席した等族はオスマン帝国の同意のもと、ベトレンをハンガリー王に選出したが、ハプスブルク家との和解を重んじ、ハンガリーの再統一を理想とするベトレンは国王選出を拒んだ。ところがこの国王選出が契機となって、9月にはトランシルヴァニアとハプスブルクとの戦争が王領ハンガリーと[[インナーエスターライヒ]](下オーストリア)で再開された。
 
[[ファイル:Budapest_Heroes_square_Bethlen_Gábor.jpg|thumb|250px|[[ブダペスト]]の英雄広場に立つベトレンの像]]
1620年[[11月8日]]、皇帝フェルディナント2世のが[[白山の戦い|ビーラー・ホラの戦い]]でチェコ人反乱者たちを壊滅させる(この時、ベトレンはチェコ人を支援するため3000人の軍勢を送り込んだが戦いに間に合わなかった)と、ベトレンはハプスブルクに対する再度の反乱を開始した。フェルディナント2世はボヘミアのプロテスタント貴族に残酷な報復を行ったうえ、王領ハンガリーを再征服した(同国の首都プレスブルクは[[1621年]]5月に、鉱山都市を含む中央部は同年6月に皇帝軍の支配下に入った。ベトレンの支配下におかれていた地域のプロテスタント貴族は、自分たちの期待していたカトリックからの没収財産の分け前にあずかれないことを不満に思っており、このときベトレンに対する支持を取り下げた。

ベトレンはまたオスマン帝国から直接支援を受けているわけではなかったため、すぐに皇帝軍との戦いに乗り出すわけにもいかず、皇帝側との和平交渉を始めた。1621年[[12月31日]]、[[ニコルスブルクの和約]]が結ばれ、フェルディナント2世[[1606年]]のウィーンの和約(ハンガリーにおけるプロテスタント信仰の自由を保障していた)を確認し、6か月半年以内にハンガリー議会を招集することを条件に、ベトレンは正式にハンガリー王の称号を放棄すると宣言した。ベトレンはこの和約に際して、トランシルヴァニアの「統治君主」という形式的な称号、[[ティサ川]]上流域(現在のスロヴァキア、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニアにまたがる地域)周辺の7郡、[[トカイ]]、[[ムカーチェヴェ|ムンカーチ]]、[[エチェド]]の要塞、それにして[[シレジア|シロンスク]]地方の小国家[[オポーレ公国]]を手に入れた。
 
=== 晩年 ===
その後、ベトレンは皇帝フェルディナント2世が領する和約後も上部ハンガリーへの侵攻を2度(1623[[1623 - ]]から[[1624年]][[1626年]]の2度に渡って行っているが、この時はどちらも反ハプスブルクを標榜するプロテスタント勢力の直接の同盟者という立場であった。最初の紛争は1624年のウィーンの和約で、2度目は1626年の[[プレスブルクの和約]]で終わった。これら2つの和平条約はどちらも1621年のニコルスブルクの和約を確認するものだった。

2度目の遠征が終わった後、ベトレンはウィーン宮廷との友好関係を修復しようと試み、トルコ人を共通の敵とする軍事同盟の締結や、ベトレン自分自身とオーストリアの大公女との結婚を構想していたが、フェルディナント皇帝はベトレンの申し出を2世にられ。このため、ベトレンは対トルコ戦争計画を放棄せざるを得なくなった。こうした失敗もあって、ベトレンはウィーンから帰ってまもなく[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]][[ヨーハン・ジギスムント]]の娘カタリーナと婚し、プロテスタント勢力の同盟者としての地位をさらに固めることになった(ベトレンの最初の妻カーロイ・ジュジャンナは1622年に死んでいた)。結婚後、ベトレンはカタリーナの姉の夫である[[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王位獲得のための戦いを支援した。

1629年11月15日、ベトレンはトランシルヴァニアと王領ハンガリーを統一するという壮大な計画を完遂することのないまま49歳で亡くなった。後継者には前もって妻カタリーナがトランシルヴァニア公に選出されていた。翌[[1630年]]にカタリーナは退位、新たに[[ラーコーツィ家]]から[[ラーコーツィ・ジェルジ1世]]が選出され、ベトレンと並ぶトランシルヴァニアの全盛期を築いた。
 
ベトレン・ガーボルはその生きた時代の最も魅力的かつ独創的な人物の1人だった。25回も聖書を通読したことを誇りとする熱心な[[カルヴァン派]]信徒であったが、宗派的な偏見を持つことなく、[[イエズス会]]の修道士カールディ・ジェルジに自分用の聖典を翻訳・印刷させたこともあった。ベトレンは生涯にわたり同時代の第一級の政治家たちと渡りあっており、その書簡は最も重要かつ興味深い歴史史料の1つである。
 
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