「長野日報」の版間の差分

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南信毎日新聞は終戦直後の[[1945年]]10月5日、『南信日日新聞』として週刊で復刊した。同年12月4日には隔日刊に移行し、翌[[1946年]]1月1日から日刊発行(夕刊)を開始した。同年7月30日に株式会社南信日日新聞社に転換し、東京、長野、松本、飯田、伊那、木曽福島に支社局を設置した。[[1967年]]5月5日、諏訪市高島3丁目に建設した新本社に移転し、同時に新輪転機を導入した。
 
[[1983年]]には現在の本社ビルが完成。同年3月24日に上伊那地方の[[伊那市]]、[[駒ヶ根市]]を対象とする『伊那日報』『駒ケ根日報』を創刊したのを皮切りに、[[1985年]]にかけてそれまでエリア外だった中南信地方の各地に『日報』題号の地域紙98紙を創刊した。1985年にハマダ印刷機械製の「ニュークラウナ」オフセット輪転機と新発送ラインを導入。[[1987年]]9月1日に夕刊から朝刊に移行した。
 
===長野日報への改題===
 
[[1992年]]1月1日、『南信日日新聞』と『日報』グループ98紙を統合して題号および社名を『長野日報』に改称し、諏訪版、伊那版、塩尻版、木曽版の発行を始めた。[[1993年]]12月にはコンピューターを利用した新聞編集システム「[[マルメロ|かりん]]」が稼働。[[2000年]]10月、新聞社として世界初となる[[ISO14001]]の認証を取得し、[[2001年]]に新しい新聞編集システムを導入した。
 
[[2005年]]、発行部数の低迷を理由に、塩尻版および木曽版の発行を休止し、塩尻支社および木曽支局を閉鎖した。木曽版については、塩尻版で競合関係にあった[[市民タイムス]]([[松本市]])が発行を事実上引き継いだ。[[2009年]]3月、本社隣接地に印刷センターが完成し、西研グラフィックス製の「西研65型」オフセット輪転機と新編集システムの使用を開始した<ref>[http://www.nichiin.co.jp/news/kiji/1241738298_3353_2.html 「長野日報社(長野県諏訪市)、新聞社初のアズーラ採用」] 日本印刷新聞、2009年5月2日</ref>。[[2010年]]からは読売新聞社との間で、イベント記事やおくやみ記事などを交換する編集協力を行っている<ref>[http://www.pressnet.or.jp/news/headline/100801_705.html 「読売と長野日報が記事交換を開始」] 日本新聞協会、2010年8月1日</ref>。