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アラゴン連合王国の主要言語であったアラゴン語とカタルーニャ語による名称
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[[ファイル:Imperi de la Corona d'Aragó.png|thumb|280px|アラゴン連合王国の最大領域(1380年代)]]
'''アラゴン連合王国'''([[アラゴン語]]:{{Lang|an|Corona d'Aragón}}, [[カタルーニャ語]]:{{Lang|ca|Corona d'Aragó}}, [[カスティーリャ語]]:{{Lang|an|Corona de Aragón}})は、[[アラゴン王国]]({{Lang|an|Reino d'Aragón}})および[[カタルーニャ君主国]]({{Lang|ca|Principat de Catalunya}})を中心とする複数の君主国の[[同君連合]]として構成された[[中世]][[南ヨーロッパ]]の国家。[[シチリア島]]を領有するなど[[地中海]]国家としても発展した。日本語訳は一定せず、'''アラゴン=カタルーニャ連合王国'''、'''アラゴン地中海帝国'''などとも呼ばれるが、単に'''アラゴン王国'''と呼んでこの連合王国を指す場合も多い。[[カスティーリャ語]]による名称は{{Lang|an|Corona de Aragón}}
 
== 歴史 ==
[[1137年]]に[[アラゴン君主一覧|アラゴン王]][[ラミロ2世 (アラゴン王)|ラミロ2世]]の一人娘[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ]]女王と[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]の君主である[[バルセロナ伯]][[ラモン・ベレンゲー4世]]の結婚によって、原初の連合が成立した。これはアラゴンによるカタルーニャの併合でもその逆でもなく、両者がそれぞれの政治制度を維持したまま対等な連合関係を結んだものである。ラモン・ベレンゲー4世はカタルーニャとともにアラゴンの統治も行い、ペトロニラとの間の息子[[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]はアラゴン王とバルセロナ伯を兼ねた。
 
[[カスティーリャ君主一覧王国|カスティーリャ女王]]の女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]の夫で共同君主であったフェルナンド5世がアラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]として即位した[[1479年]]に[[スペイン|スペイン王国]]へと統合されたと見なすことができる。これもまた各国が政治制度を維持したままの連合であったが、実態としてはカスティーリャを中心とするものであり、[[スペイン継承戦争]]を経て[[スペイン・ブルボン朝]]の支配が確立した18世紀初めには、新国家基本法により旧来の政治機構は解体されて中央集権化が図られた。
 
== 主な領域 ==