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|casualties2=死亡1,250<br>負傷1,000<br>捕虜558
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'''カロデンの戦い'''([[:en:Battle of Culloden|Battle of Culloden]])は、[[スコットランド]]で[[1746年]]に起こった、[[ジャコバイト]]による[[グレートブリテン王国]]に対する最後の組織的抵抗である。日本語では「カロデン・ムアの戦い」「カロドンの戦い」「カロドン・ムアの戦い」とも表記される。 この敗北によってジャコバイト運動はほぼ鎮圧された。また、イギグレートブテン王国側指揮官[[ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)|カンバーランド公]]の虐殺が後世に残り、[[スコットランド]]人の対[[イングランド]]感情を悪化させる一因となった。
 
== 前哨戦 ==
[[チャールズ・エドワード・ステュアート|チャールズ若僭王]]は[[1745年]]、[[フランス]]からスコットランドに上陸した。[[ハイランド地方|ハイランド]]の[[氏族]]たちを集め、軍隊をおこした。チャールズの軍は[[エディンバラ]]を占領し、グレートブリテン王国政府軍の微弱な抵抗を立て続けに破っていった。[[11月8日]]チャールズ軍はイングランドに侵攻し、[[トーマス・カーライル|カーライル]]、[[マンチェスター]]および[[ダービー (イギリス)|ダービー]]へと軍を進めた。これは[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]を[[ハノーファー]]に逃げさせるための示威行動であったと考えられている。
 
さらにチャールズはイングランドや[[フランス]]にも蜂起を呼びかけた。フランスはチャールズ支援に動き出す意思を見せたが、イングランドではほとんど支持が集まらなかった。さらに、フランス艦隊の準備よりも、カンバーランド公の来寇が先んじていた。やむを得ずチャールズ軍はスコットランドに退き、[[グラスゴー]]で態勢の立て直しをはかった。いっぽうカンバーランド公率いる政府軍はエジンバラまで進み、ジャコバイト軍の動静を窺った。
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カンバーランドは依然その地にとどまり、ジャコバイトの捜索を続けた。捕らえられたジャコバイトは、くじ引きで当たりを引いたものが処刑された。捕らえられた3470人のジャコバイトの運命は処刑が120人、獄死88人、奴隷として植民地に送られた者936人、「追放」22人という記録が残っている。700余名の「その後」について記録はない。
 
イギグレートブテン王国政府は反乱の再発防止のために、[[キルト (衣装)|キルト]]と[[タータン]]の着用を禁じ、氏族制度を解体して政府軍をハイランドに常駐させた。スコットランド人にとって、これは屈辱的な仕打ちに映った。
 
== 参考資料 ==