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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[一向一揆]]で[[本願寺]]の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年([[1580年]])、[[織田信長]]配下の[[柴田勝家]]の甥[[佐久間盛政]]が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。
[[ファイル:Kanazawa Castle Gate.JPG|thumb|240px|right|[[金沢城|金沢城址]]]]
[[賤ヶ岳の戦い]]以降、[[前田利家]]が尾山城(金沢城)を居城とし、[[加賀藩]]の原型が形成された。城下町には二重の[[総構え|惣構]]が掘られ、[[環濠都市]]となり、現在でもその遺構を確認することができる。それまで点在していた寺院は一向一揆を防ぐために、金沢城から南西の犀川流域、東側の[[卯辰山]]、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが[[寺町寺院群]]、[[卯辰山山麓寺院群]]、[[小立野寺院群]]となった。
慶長5年([[1599年]])に利家が死去すると、翌年には[[関ヶ原の戦い]]が起こる。利家の遺領を相続した長男の[[前田利長]]は、東軍の[[徳川家康]]につき、西軍に属した弟の[[前田利政]]の所領を戦後に与えられ、[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]を有する大大名となる。 以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。
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