削除された内容 追加された内容
多重アカウントによるブロック逃れをrv
通りすがりの某 (会話) による ID:40408048 の版を取り消し
1行目:
[[ファイル:Map of The east barbarian 0.png|thumb|350px|[[紀元前1世紀]]頃の[[東夷]]諸国と濊の位置。]]
'''{{lang|zh|濊}}貊'''(わいはく、かいはく)とは、中国の[[黒龍江省]]西部・[[吉林省]]西部・[[遼寧省]]東部から[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]東部にかけて、北西~南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族。同種の近縁である{{lang|zh|濊}}と貊の二種族を連称したもの。[[周]]代以降の記録に濊・貊の名が見えるが、漢代に入り濊貊と記されるケースが増える。濊貊の民族や言語は夫余と同じとされるが<ref>『後漢書東夷伝』『三国志東夷伝』</ref>、後裔が途絶えているため、現在に至ってもよく解っていないが、日本では[[ツングース系]]に属すると考える学者が多い<ref>
*シロコゴロフ著、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
*『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
*[[井上秀雄]]、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
*加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したとされるが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
*[[三上次男]]・[[神田信夫]]編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
*鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
*『[[Yahoo!百科事典]]』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余,高句麗,沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである《浜田耕策》。【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》」
*南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。([http://megalodon.jp/2011-0828-0428-57/kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h190805-1p.html いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論])」</ref>。文化や習俗は、[[モンゴル系]]の東胡,ツングース系の粛慎,朝鮮半島南部の韓族の何れとも異なる。
 
==呼称==
29 ⟶ 21行目:
[[紀元前75年]]、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭味県,前莫県,夫租県)に分けて治めさせ、官吏は濊(東濊)の民が務めた。
 
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]6年([[30年]])、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の諸県はみな侯となった。
 
[[32年]]、光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。濊貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(濊貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の濊侯だけは(晋の官吏としての)功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて濊人(東濊人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。
 
[[魏 (三国)|魏]]の[[正始 (魏)|正始]]6年([[245年]])、楽浪[[太守]]の[[劉茂]]と帯方太守の[[弓遵]]は、領内の東濊が後漢末から高句麗に従属していたため軍を起こして討ち、不耐侯らは配下の邑落を挙げて降伏した。8年([[247年]])、魏の宮廷へ朝貢に詣でたため、詔を下し改めて不耐濊王の位が授けられた。濊王は一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所へ朝謁する。楽浪と帯方の二郡に軍征や特別の徴税があるときには、彼ら濊人(東濊)にも税や夫役が割り当てられ普通の住民のように待遇される。
 
==遺構==
54 ⟶ 46行目:
 
沃沮では死者のために10余丈の棺を作り、土葬した後に骨のみを棺へ納める。一家は皆1つの棺に納められる。
 
民族や言語については、後裔が途絶え手掛かりが僅かしか現存しないため<ref>現在の所『三国志』『三国史記』中に記載された不確実な80余の単語しか残っていない</ref>解っていない。
文化や習俗は、モンゴル系の東胡,ツングース系の粛慎,朝鮮半島南部の韓族の何れとも異なる<ref>『東北古代民族研究論網』第二・三章</ref>。
 
== 注釈 ==