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サンチョ4世の暗殺([[1076年]])後、カスティーリャ王[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]とアラゴンの[[サンチョ1世 (アラゴン王)|サンチョ・ラミレス]]は共同でナバラの統治にあたった。[[エブロ川]]以南の町とバスク地方がカスティーリャの統治となり、残りがアラゴン統治となり、[[1134年]]まで続いた。アラゴン統治者3代、サンチョ・ラミレス([[1076年]] - [[1096年]])と息子の[[ペドロ1世 (アラゴン王)|ペドロ・ラミレス]]([[1094年]] - [[1104年]])は[[ウエスカ]]を征服し、ペドロ・サンチェスの弟[[アルフォンソ1世 (アラゴン王)|アルフォンソ・エル・バタラドール]](戦闘王、[[1104年]] - [[1134年]])は王国最大の領土拡張を達成した。[[ムーア人]]から[[トゥデラ]]を奪取([[1114年]])し、[[1042年]]に失した[[ブレバ]]全土を奪還し、[[ブルゴ]]州へと侵攻した。さらに、[[ロハ]]、[[ナヘラ]]、[[ログローニョ]]、[[カラオラ]]、[[アルファロ]]は彼に従い、ギプスコアの港に戦艦を停泊させている間の短期間ではあるが[[バイヨンヌ]]も従った。[[1134年]]、特に何事もなく彼が死んだ後は、ナバラとアラゴンは分離した。アラゴンでは聖職者であったアルフォンソの弟[[ラミロ2世 (アラゴン王)|ラミロ]]が王位に就いた。
 
ナバラでは、ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール([[エル・シド]])の孫であり、サンチョ大王の子ガルシア5世(ナバラ王としては3世)の庶流であるモンソン卿[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア・ラミレス]]が、大王の庶子[[ラミロ1世 (アラゴン王)|ラミロ1世]]の系統であるアラゴン王家に奪われていたナバラ王位を、1134年に取り戻した。ガルシア・ラミレスは[[1136年]]にはリオハをカスティーリャに明け渡し、[[1157年]]には[[タラゴナ]]をアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャの[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている
 
ガルシア・ラミレスは[[1136年]]にはリオハをカスティーリャに明け渡し、[[1157年]]には[[タラゴナ]]をアラゴンに明け渡し、さらにはカスティーリャ[[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]の家臣だとも名乗ったりした。彼は全く無能であり、たびたび教会や修道院の収入の世話になっている。息子[[サンチョ6世 (ナバラ王)|サンチョ・ガルシア・エル・サビオ]](賢王、[[1150年]] - [[1194年]])は学習熱心の末、政治家としても有能となり、ナバラを内外共に強固にし、多くの町に憲章を制定し、戦争でも負けなかった。賢王は娘[[ベレンガリア・オブ・ナヴァール|ベレンゲーラ]]を[[イングランド王国|イングランド王]][[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]と結婚させることに同意する。ナバラまで[[ピレネー山脈]]を越えやって来たリチャードの母[[アリエノール・ダキテーヌ]]がベレンゲーラを[[シチリア]]へと連れて行き、まさに[[第3回十字軍]]に身を投じんとする息子に引きあわせ、[[1191年]][[5月12日]]に[[キプロス島]]で2人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である
 
[[サンチョ6世 (ナバラ王)|サンチョ6世]](賢王)は娘[[ベレンガリア・オブ・ナヴァール|ベレンゲーラ]]を[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]と結婚させることに同意する。ナバラまで[[ピレネー山脈]]を越えやって来たリチャードの母親の[[アリエノール・ダキテーヌ]]がベレンゲーラを[[シチリア]]へと連れて行き、まさに[[第3回十字軍]]に身を投じんとする息子に引きあわせ、[[1191年]][[5月12日]]に[[キプロス島]]で二人は結婚した。彼女はイングランドに足を踏み入れなかった唯一のイングランド王妃である。
 
== フランス人王朝 ==
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