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== フランス人王朝 ==
賢王の息子[[サンチョ7世 (ナバラ王)|サンチョ7世]]が隠棲生活の後、1234年に死去した時、正嫡の子はおらず、ナバラ系[[ヒメノ朝|ヒメノ家]]の男系は断絶した。そこで、サンチョの妹ブランカの息子で[[フランス王国|フランス]]貴族である[[シャンパーニュ伯]]ティボー4世が[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]として王に迎えられた。その息子[[テオバルド2世 (ナバラ王)|テオバルド2世]](ティボー5世)はフランス王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]の王女[[イザベル・ド・フランス (ナバラ王妃)|イザベル]]と結婚するなど、フランス王家とは近い関係にあり、シャンパーニュ伯家([[ブロワ家]])はフランスでも屈指の名門貴族であった。そのためにイベリア半島の領地よりはフランスに関心が向けられ、ナバラは次第に衰退へと向かうことになる。
 
ブロワ家では1274年に[[エンリケ1世 (ナバラ王)|エンリケ1世]](アンリ3世)が没して男子が絶え、幼い娘[[フアナ1世 (ナバラ女王)|フアナ1世]](ジャンヌ)を女王としたナバラは周囲の諸国から狙われることになった。フアナの母でフランス王族であった[[ブランシュ・ダルトワ|ブランシュ]]はフランス王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]に庇護を求め、王太子フィリップ(のちの[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]])とフアナの結婚が取り決められた。フィリップは1284年にナバラ王フェリペ1世となり(翌1285年にフランス王位も継承)、ナバラはフランスから総督を通じて統治されることになった。以後、[[カペー朝]]の断絶までフランスとナバラの[[同君連合]]は続いた。ナバラ王家の血を引かない[[ヴァロワ家]]の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の即位によって1328年に同君連合は解消され、[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]の娘ジャンヌ([[フアナ2世 (ナバラ女王)|フアナ2世]])とその夫でフランス王族の[[エヴルー]]伯フィリップ([[フェリペ3世 (ナバラ王)|フェリペ3世]])がナバラ王位に就いた。