「引分 (相撲)」の版間の差分

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江戸から[[明治]]にかけては、そうした物理的なものの他にも、[[抱え (相撲)|お抱え大名]]の都合や、上位力士の面子をたもつために、無理をして勝負をつけないで、四つに組み合ったまま引分をねらうようなことも見受けられた。横綱[[大砲万右エ門|大砲]]は、ひと場所9日間皆勤して、9日間とも引分を記録したという椿事も生まれた。[[常陸山谷右エ門|常陸山]]と[[梅ヶ谷藤太郎 (2代)|梅ヶ谷]]の両雄の対戦も、横綱昇進後は、引分となることが多かった。
 
[[1909年]]の[[両国国技館]]開館によって、[[東西制|東西の団体優勝制度]]や、個人への[[優勝額]]の授与がはじまると、勝負をつけることを心がける力士も多くなり、[[栃木山守也|栃木山]]のような、スピードのある相撲をとる力士も出てくるようになると、引分は減少の傾向をたどった。[[昭和]]になってから、さまざまな勝負についての制度改革が行われた際に、二番後[[取り直し]]の制度が決められてから、引分は大幅に減少した。
 
[[1943年]]5月場所で、[[青葉山徳雄]]と[[龍王山光|龍王山]]との対戦が引分となったが、[[山本五十六]]戦死が報じられた直後でもあり、軍部の影響下にあった協会幹部から嫌がられて、両力士とも〈敢闘精神不足〉という名目で出場停止の処分をうけた。