「ウンベルト・コエリョ」の版間の差分

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ポルトガルサッカー史上、最も優秀なストッパーとして見なされるコエリョは18歳で[[リスボン]]に本拠地を置くベンフィカのトップチーム入りをする。22歳を迎える前には既に[[スーペル・リーガ|ポルトガル1部リーグ]]で100試合以上出場していた。1968年10月27日、コエリョは3-0で勝利した[[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]の[[サッカールーマニア代表|ルーマニア]]戦でポルトガル代表デビューを果たした。以後15年間、彼は63のキャップ数を積み上げ6得点をマークする。1975年から2年間、コエリョは[[フランス]]の[[パリ・サンジェルマンFC]]でプレーする。1年目は6得点という数字が示すように、彼はCBというポジションにも関わらず持ち前の攻撃性を見せたがチームはリーグで14位に沈んだ。その後コエリョはベンフィカに復帰すると3度のリーグ優勝と4度の[[タッサ・デ・ポルトガル|ポルトガルカップ]]優勝に貢献した。1983年4月27日に行われた[[UEFA欧州選手権1984予選]]の[[サッカーソビエト連邦代表|ソ連]]戦がコエリョにとって最後の代表戦だった。ポルトガルはフランスでの本戦出場権利を獲得したが、負傷の為に欠場を余儀なくされた。ベンフィカでの公式戦を約500試合出場(リーグ戦では360試合50得点)した後、コエリョは選手生活にピリオドを打った。
 
== 監督経歴 ==
コエリョは[[スポルティング・ブラガ]]とサルゲイロスで指導者としてスタートする。その後10年以上のブランクを経て1997年にポルトガル代表監督に就任すると2000年に開催された[[UEFA欧州選手権2000|UEFA欧州選手権]]でチームを4大会ぶりの準決勝に導く。しかし大会後の契約更新は成らなかった。同年の10月、彼は[[サッカーモロッコ代表|モロッコ代表]]監督の座に就くが、<ref>{{Cite news|title=Coelho takes Moroccan reins |date=2000-10-25|publisher=[[英国放送協会]]|language=英語|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/991480.stm}}</ref>[[2002 FIFAワールドカップ]]の予選突破を果たせず解任された。<ref>{{Cite news|title=Morocco coach Coelho released |date=2002-05-27|publisher=[[英国放送協会]]|language=英語|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/africa/2011380.stm}}</ref>2003年に[[フース・ヒディンク]]の後任として[[サッカー韓国代表|韓国代表]]監督に就任する。しかし[[AFCアジアカップ2004 (予選)|AFCアジアカップ2004予選]]で格下の[[サッカーベトナム代表|ベトナム]]・[[サッカーオマーン代表|オマーン]]に連敗、<ref>{{Cite news|title=【衝撃の2連敗】韓国代表に何が起こったのか |date=2003-10-22|publisher=[[朝鮮日報]]|language=日本語|url=http://www.chosunonline.com/news/20031022000090}}{{リンク切れ|date=2011年12月}}</ref>極めつけは[[2006 FIFAワールドカップ・アジア予選|2006 FIFAワールドカップ予選]]の[[サッカーモルディブ代表|モルディブ]]戦でスコアレスドローの失態を演じ<ref>{{Cite news|title=【集中分析】「不和」「管理不足」・・・没落する韓国サッカー |date=2004-04-01|publisher=[[朝鮮日報]]|language=日本語|url=http://www.chosunonline.com/news/20040401000037}}{{リンク切れ|date=2011年12月}}</ref>辞任に追い込まれた。<ref>{{Cite news|title=South Korea coach quits |date=2004-04-19|publisher=[[英国放送協会]]|language=英語|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/internationals/3638647.stm}}</ref>その後[[サウジアラビア]]の[[アル・シャバブ・リヤド]]を短期間指導し、2008年に[[サッカーチュニジア代表|チュニジア代表]]を率いることになった。だが2009年11月18日に行われた[[2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選|2010 FIFAワールドカップ予選]]の[[サッカーモザンビーク代表|モザンビーク]]戦で0-1で敗れたのを受けコエリョは解任される。<ref>{{Cite news|title=Tunisia coach loses his job |date=2009-11-18|publisher=[[英国放送協会]]|language=英語|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/africa/8366282.stm}}</ref>この敗戦は[[1998 FIFAワールドカップ|1998年大会]]から続いてた同国のワールドカップ連続出場記録を途切れさせるものであった。
 
==脚注==