「日野輝資」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''日野 輝資'''(ひの てるすけ、[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]]) - [[元和 (日本)|元和]]9年[[8月2日 (旧暦)|閏8月2日]]([[1623年]][[9月26日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]の人物公家。[[日野家]]第28代当主。[[正二位]]権[[大納言]]。別名は'''兼保''''''兼潔'''。[[法号]]より'''日野 唯心'''(ひの ゆいしん)とも呼ばれる。[[日野家]]28代当主。[[正二位]][[大納言|権大納言]]
 
父は[[広橋国光]]、母は[[高倉永家]]の娘。妻は[[津守国繁]]の娘子に[[日野資勝]]、[[日野輝子]]、養子に外孫の[[日野資栄]]がいる。養女は[[小笠原貞慶]]の妻([[小笠原秀政高畠長成]]の)。
 
[[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])、[[日野家]]では[[日野晴光|晴光]]が薨去したものの嗣子[[日野晴資|晴資]]は早世してしまっており、後を継ぐべき子がいなかった。そのため、[[飛鳥井雅綱]]の子[[日野資堯|資堯]]を擁する[[三好長慶]]と[[広橋国光]]の子兼保を擁する[[征夷大将軍|将軍]][[足利義輝]]との間で争いが生じた。[[日野家|日野流]]の[[柳原資定]]・[[広橋兼秀]]の賛同を得た義輝の意見が通り、[[永禄]]2年([[1559年]])4月23日に[[正親町天皇]]の承認によって広橋兼保の日野家相続が決定され、直ちに[[侍従]]に任ぜられて日野家当主(嫡子)の慣例どおり将軍家の一字を与えられて'''日野輝資'''と改名した。
 
[[天正]]2年3月26日([[1574年]])、正親町天皇の勅使として、[[飛鳥井雅清]]と共に[[織田信長]]の下に訪れ、[[蘭奢待]]切り取りの勅許の旨を伝えた。天正4年2月1日([[1576年]])、[[烏丸光宣]]・[[広橋兼勝]]らと共に[[山科言継]]・[[山科言経]]に同行し、[[村井貞勝]]を訪問した。
 
[[慶長]]7年1月7日([[1602年]])、[[近衛家]]との論争により京都を出奔する。2ヵ月後、[[徳川家康]]の取り計らいにより京都に戻る。慶長12年([[1607年]])5月、輝子の死去をきっかけにして、[[出家]]して唯心院と号した。以後、[[江戸]]や[[駿府]]において[[徳川家康|家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]父子に仕えて、[[近江国|近江]][[蒲生郡]]内において1030石を与えられた。家康側近の[[僧侶]]としては[[金地院崇伝]]・[[南光坊天海]]に次ぐ地位にあったとされている。[[禁中並公家諸法度]]の編纂にも加わり、その正本は日野唯心によると言われている。元和9年([[1623年]])、秀忠の[[上洛]]に従い[[京都]]に戻り、薨去した。
 
 
== 外部リンク ==
* [http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho0.htm 日野輝資関係、織田家との交流の資料]
 
 
{{DEFAULTSORT:ひの てるすけ}}
[[Category:日野家|てるすけ]]
[[Category:広橋家|てるすけ]]
[[Category:室町・安土桃山時代の公家]]
[[Category:1555年生]]
[[Category:1623年没]]
[[Category:日野家|てるすけ]]