「土橋亭里う馬」の版間の差分

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初代'''土橋亭 里う馬'''([[文化 (日本)|文化]]元年([[1804年]]、逆算) - [[嘉永]]4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1851年]][[7月12日]]))は、落語家。通称上総屋善五郎。
 
最初[[入船亭扇橋#初代|初代船遊亭扇橋]]門下であったが名は不明。後に初代司馬龍生門下に転じ里ん太、2代目里ん馬から2代目龍生、更に土橋亭里う馬(初代)を名乗った。[[烏亭焉馬#2代目以降|2代目立川焉馬]]の贔屓を受け、[[1848年]]秋に2代目焉馬が発行したと推測される[[番付]]には西の[[大関]]で「土橋亭立川龍馬」となっている。材木町に住んでいたが後に八丁堀に転居している。
 
嘉永4年没。[[享年]]44。
 
実子は後に[[古今亭志ん馬]]を名乗っている。
 
門下には[[司馬龍生#3代目|3代目司馬龍生]]、2代目、3代目里う馬、里ん蝶(後の[[瀧川鯉橋|2代目瀧川鯉橋]])らがいた。
 
== 2代目 ==
2代目'''土橋亭 里う馬'''([[生没年不詳]]) は、落語家。通称肴屋巳之吉。
 
最初は[[昔々亭桃太郎|桃太郎]]というが師匠は不明、後に柳蝶(柳好、柳鳥とも)、[[天保]]末に初代の門下で里ん馬、[[1852年]]?に里う馬を名乗った。[[浅草]]聖天町の出身。『東形人廼口同言』には[[寄席]]金沢亭の席主であったというような記載がなされている、努力家であったが人気は今ひとつであり、その外見から「鼻赤の里う馬」と言われていたという。[[慶応]]年中に横浜で没した。
 
== 3代目 ==
3代目'''土橋亭 里う馬'''(生没年不詳) は、落語家。本名未詳。
 
通称「眼パチの里う馬」。初代[[登龍亭鱗蝶]]の門下で鱗生(または里ん生)後に初代里う馬の門下で二代目司馬鱗蝶(または鱗ん蝶から4代目?司馬龍生を経て3代目里う馬と襲名した。
 
== 4代目 ==