「歌川広重 (2代目)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
2行目:
 
== 来歴 ==
二代歌川広重は、初代[[歌川広重]]の門人。姓・鈴木または森田、名・鎮平。立斎、立祥、喜斎と号す。初代歌川広重と同じで、定火消し同心の子息であった。[[弘化]]([[1844年]]-[[1848年]])の頃、初代広重に入門後、初めは重宣と称し、[[美人画]]や[[花鳥画 (浮世絵) |花鳥画]]、[[武者絵]]を描き、やがて、[[風景画]]も描くようになり、徐々に初代の作域に近付いてゆく。[[安政]]5年([[1858年]])に初代が没すると、翌安政6年([[1859年]])、広重の養女お辰の婿になり、2代目歌川広重を襲名した。この時、お辰は16-17才であった。二代広重は、師の画風を忠実に継承した風景画などを描いた。お辰22才の時、[[慶応]]元年([[1865年]])になると、20才という年齢差が災いしてか夫婦喧嘩により、お辰と離別することとなり、以降は、森田姓を称し、横浜に移り住んで、喜斎立祥と号して、外国輸出用の茶箱のラベル絵を描いたため、人々から「茶箱広重」と呼ばれ、特に外国人からは重宝がられた。
 
安政6年([[1859年]])12月に描かれた「諸国名所百景 尾州名古屋真影」(那珂川町馬頭広重美術館所蔵)では、月夜に浮かぶ名古屋城の天守閣上にある金鯱を大胆にクローズアップしている。