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| 主砲= [[九七式五糎七戦車砲]]([[口径]]57mm、18.4口径)<br>ないし<br>[[一式四十七粍戦車砲]](口径47mm、48口径)
| 副武装= 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)×2
| 装甲= 前面25 [[ミリメートル|mm]]、側面25 mm~20 mm<br>後面20mm、上面10mm、底面8mm、防盾50㎜
| エンジン名= [[三菱重工業|三菱]]SA一二二〇〇VD<br/>空冷V型12気筒ディーゼル
| 出力= 150 hp/1,500 rpm<br/>170 hp/2,000 rpm
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}}
 
'''九七式中戦車 チハ'''(きゅうななしきちゅうせんしゃ -)は、[[第二次世界大戦]]時の[[日本軍]]の[[戦車]]。[[八九式中戦車]]の後[[中戦車]]として[[1930年代]]後半に開発・採用された。開発は[[三菱重工業]]。
 
[[1939年]](昭和14年)の[[ノモンハン事件]]で初陣を飾った。
 
== 概要 ==
[[1936年]](昭和11年)、[[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]]において[[歩兵]]の直接支援のための戦車([[歩兵戦車]])として開発が開始された。新型中戦車の開発に当たっては当然速度性能、防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車輌重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、やむなく双方のコンセプトに沿った車輌を試作し比較試験するいう異例の事態となった<ref>当時の各種資材は全備重量12t程度を想定して整備されている、という趣旨の発言がなされている。「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」参照。</ref>。なお、主砲についてはどちらも[[八九式中戦車]]の主砲と同じく57㎜短砲身とされ、この面では軽量案も威力低下等の妥協はされていない。試験の結果はどちらもおおむね良好とされたが、比較的大重量だが性能に優れる三菱製のチハが制式採用された。性能を絞って軽量を目指した[[大阪砲兵工廠|陸軍造兵廠大阪工廠]]製の[[試製中戦車 チニ|チニ]]は試作のみで中止されることになった。なお、比較的高価、かつ大重量な本車がチニを抑えて採用されたのは[[支那事変]]により軍事予算全般に余裕ができたのも一因とされる。
 
他の多くの国では[[ガソリンエンジン]]が主流だった時代に、[[空冷エンジン|空冷]][[ディーゼルエンジン]]を搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは[[燃料]]に揮発性の高い[[ガソリン]]でなく[[軽油]]を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、またい[[オクタン価]]のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。<!--- さらに空冷方式の採用は、当時の日本の工作技術では、技術的に複雑な[[水冷エンジン]]の量産が難しかったという事情があった。 --->また、想定戦場である[[満州]]では、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。<!--- 本車の場合のみならず、[[自動車産業]]の発展に出遅れていた当時の日本の技術では、エンジン系統の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。 --->
 
車体前方右寄りに[[砲塔]]が設置され、[[戦車砲|主砲]]として'''[[九七式五糎七戦車砲]]'''([[口径]]57mm)を搭載した。[[機関銃]]は[[九七式車載重機関銃]](口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。
 
本車の出現当時の外国製戦車(初期の[[III号戦車]]や[[BT-5]]など)と比較して[[装甲]]厚や主砲口径などは一見同程度であるが、実際は対戦車戦闘能力や、操作性などに大差があった。もともと対戦車戦闘能力を考慮した設計ではなく、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。本来'''歩兵支援'''を行い敵陣地銃座の破壊を目的とした九七式五糎七戦車砲の装甲貫通力(は、八九式中戦車の[[九〇式五糎七戦車砲]]から各部改良が施されたものの、使用[[砲弾]]及び装甲は同等([[徹甲弾]]の[[砲口初速|初速]]350m/s)であり、この面で威力向上はあまり考慮されなかった<ref>「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件」</ref>)があまりにも貧弱であることに加え、通常交戦距離で国産の[[九四式37mm速射砲|九四式三十七粍砲]]の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は制式化当初こそ最薄すぎ厚い部類であったが日支事変における[[国民革命軍|中国国民党軍]]装備するした[[3.7 cm PaK 36|PaK 35/36]]や、[[赤軍|ソ連軍]]の[[19-K 45mm対戦車砲]]によって、容易に貫通撃破されてしまった。このように[[大東亜戦争]]以前の敵[[対戦車砲]]や戦車との戦いで問題点が指摘されながら、防御力に関しては十分な改善は行われなかった。
 
それでも[[太平洋日中戦争]]における中国国民党軍や[[大東亜戦争ゲリラ]])以前の敵[[対戦車砲]]戦車との戦いで問題点が指摘されながら、防御力に関しては十分な改善は行われなかった。しかし[[日中戦争]]では戦車など強力な[[対戦車兵器]]の保有数が少ない中国国民党軍や[[ゲリラ]]相手にはく、有効な兵器であった。また、[[太平洋戦線|太平洋戦争]]緒戦の各[[南方作戦]]では、[[マレー作戦]]を筆頭に[[自動車化歩兵]]・[[砲兵]]・[[工兵]]・[[陸軍飛行戦隊|航空部隊]]との協同戦である[[電撃戦]]を行い、また[[イギリス軍]]が強力な[[装甲戦闘車両]]を数多く保有していなかったこともあり活躍した。しかし、[[ビルマの戦い|ビルマ攻略戦]]における局地戦で対峙した[[M3軽戦車]]との戦車戦では苦戦を強いられた。一方、1937年には既に主砲を対戦車攻撃能力に優れた物に換装する改良計画があり、'''[[一式四十七粍戦車砲]]'''(口径47mm)に換装した車両(俗称・通称「'''九七式中戦車改'''」「'''新砲塔チハ'''」)が開発され、[[1942年]](昭和17年)中期には実戦投入された。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型に代わり一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、M3軽戦車には対抗できるようになったものの、戦争中盤から[[アメリカ軍]]は75mm砲を装備した[[M4中戦車]]をさらに投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
 
開戦前頃には主砲を対戦車攻撃能力に比較的優れた物に換装する改良計画はあり、'''[[一式四十七粍戦車砲]]'''(口径47mm)に換装した車両(俗称・通称「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」)が開発され、[[1942年]](昭和17年)中期には実戦投入された。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型に代わり一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、M3軽戦車には対抗できるようになったものの、さらに[[アメリカ軍]]は戦争中盤からは75mm砲を装備した[[M4中戦車]]を投入したため、これにも対戦車戦では非常な苦戦を強いられることとなった。
 
== 名称 ==
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== 九七式中戦車 新砲塔チハ ==
[[File:Japan type 97 1.jpg|200px|thumb|right|新砲塔チハ]]
対戦車戦闘力を上げるため、貫徹力が不十分だった九七式五糎七戦車砲を、貫徹力が向上を重視した一式四十七粍戦車砲に換装した改良型。便宜上、本稿では47mm砲搭載型を「新砲塔チハ」と表記する。
 
従来の日本軍戦車は、歩兵支援重視の考え方から[[榴弾]]威力が高くかつ軽量な短[[砲身]]の搭載戦車砲を装備していた。戦車の目的は[[陣地]]突破、[[トーチカ|火点]]制圧、[[追撃]]といった歩兵支援であり、対戦車戦闘は[[歩兵連隊]]や独立速射砲大隊・中隊などに配備されている対戦車砲([[速射砲]])が行うものとされていたためである。しかし数次に亙る[[日ソ国境紛争]]の際([[ノモンハン事件]]等)の際、長砲身45mm砲を装備した[[赤軍|ソ連軍]]戦車・[[装甲車]]との不利な戦闘経験から、戦車にあっても対戦車性能の向上が望まれた。
 
[[File:Chi-Nu depot.jpg|thumb|left|200px|終戦後、連合軍に引き渡すため集積された帝国陸軍の各機甲兵器。チハ新砲塔(手前真中等)と[[三式中戦車|三式中戦車 チヌ]](手前左右等)を中心に、大量の車両(極少数の旧砲塔車や自走砲など)が混在してい見受けられる]]
ノモンハン事件では主力対戦車砲である[[九四式37mm速射砲|九四式三十七粍砲]]が相応の戦果を挙げ、比較的装甲貫徹力が高い[[九四式三十七粍戦車砲]]を装備した[[九五式軽戦車]]も敵軽戦車・装甲車の撃破を記録した。この戦訓を生かして[[1939年]](昭和14年)から新型戦車砲の開発が始まり、これを搭載できる新型砲塔の開発も始められた。戦車砲は1942年4月に一式四十七粍戦車砲として制式化された<ref>M3軽戦車に対しては、射距離が800mと1,000mの射撃試験でそれぞれ9発中6発と6発中3発貫通の成績を残した。</ref>。なお、49口径の57mm戦車砲(初速810〜830m/s)の採用も検討されていたが、[[一式機動四十七粍速射砲|一式機動四十七粍砲]]との砲弾共用が不可能なため断念されたという説がある<ref>佐山二郎『機甲入門』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年。 『大砲入門』光人社〈光人社NF文庫〉、1999年。</ref>。九七式中戦車の車体には設計余裕があり、従来の砲塔より大型化した新砲塔も無理なく採用できた。
 
新砲塔チハで換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった([[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]](2TKD)に配備された一部の車両など、現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものは存在した)。
実際、既に[[1941年]](昭和16年)春には九七式中戦車の砲塔を[[四一式山砲]]を元に開発された、[[九九式七糎半戦車砲]]搭載の大型砲塔に換装した試製一式砲戦車(試製二式砲戦車とも呼称される)が試作され、同年より試験が行われていた。この試作車は後の[[二式砲戦車|二式砲戦車 ホイ]]の前身となる。
 
新砲塔チハの初陣は太平洋戦争緒戦の1942年5457日、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)#コレヒドバタル島の戦い|フィリピ攻略戦・コレヒドールの戦い]]に[[おける追撃戦で、戦車第7連隊]](7TK)所属として1個[[に編入された松岡隊が同連隊第三中隊]]分が送られているが、翌6日と爆撃機と共[[アメリカ極東陸]]は降伏のM3軽戦車を3両撃破ており戦闘機会はなかった。以降、新砲塔チハは旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになり、概ね[[1943年]](昭和18年)以降の帝国陸軍主力中戦車となった。
換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった([[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]](2TKD)に配備された一部の車両など、現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものも存在した)。また連合軍は大戦中盤には、従来のM3軽戦車・[[M3中戦車]]に代えて長砲身75mm砲を搭載し重装甲なM4中戦車を太平洋戦線にも投入したため、47mm砲を装備する新砲塔チハおよび対戦車砲の劣勢は最後まで変わることがなかった<ref>戦争末期には、車体に爆薬を装着しM4中戦車に体当たりする[[特攻]]まで行われた([[特別攻撃隊#陸上戦|戦車特攻]])。</ref>。
 
換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった([[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]](2TKD)に配備された一部の車両など現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものも存在した)。また連合軍は大戦中盤には従来のM3軽戦車・[[M3中戦車]]に代えて長砲身75mm砲を搭載し重装甲なM4中戦車を太平洋戦線にも投入したため、47mm砲を装備する新砲塔チハおよは再対戦車砲の劣勢は最後まで変わることがなかっに立たされた<ref>戦争末期には、車体に爆薬を装着しM4中戦車に体当たりする[[特攻]]まで行われた([[特別攻撃隊#陸上戦|戦車特攻]])。</ref>。
新砲塔チハの初陣は太平洋戦争緒戦の1942年5月5日、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)#コレヒドール島の戦い|フィリピン攻略戦・コレヒドール島の戦い]]に[[戦車第7連隊]](7TK)所属として1個[[中隊]]分が送られているが、翌6日に[[アメリカ極東陸軍]]は降伏しており戦闘機会はなかった。以降、新砲塔チハは旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになり、概ね[[1943年]](昭和18年)以降の帝国陸軍主力中戦車となった。
 
実際一方既に[[1941年]](昭和16年)春には九七式中戦車の砲塔を[[四一式山砲]]を元に開発された[[九九式七糎半戦車砲]]搭載の大型砲塔に換装した試製一式砲戦車(試製二式砲戦車とも呼称される)が試作され、同年より試験が行われていた。この試作車は後の[[二式砲戦車|二式砲戦車 ホイ]]の前身となる。
 
== 防御力 ==
[[File:Australian officers with surrendered Type 97 Chi-Ha on Rapopo Airstrip.JPG|200px|thumb|right|終戦後、[[オーストラリア軍]]に接収された多数の新砲塔チハ]]
本車の前面装甲は表面硬化鋼を使用し厚さは25mmである。側面は25mmから20mm、後面20mm、上面10mm、底面8mm。防盾50㎜。25mmという厚みは、口径37mm程度の軽便な[[火砲]]の近距離からの射撃に耐えるものとするため、九四式三十七粍砲を使用した試験を経て決定されたものであり、この際には150mの距離からの射撃にも耐えて合格とされた。ただしかし本車の採用後、中国軍から[[鹵獲]]した[[3.7_cm_PaK_36|37mm対戦車砲]]を使用した射撃試験の際には射程300mで容易に貫通されている。
 
本車の組み立ては、砲塔と車体が[[リベット]]留め、車体底板と側板に[[溶接]]が用いられた。車体形状を構築するフレームにリベットで装甲を接合した車体は被弾時に鋲がちぎれて飛び、乗員を殺傷することが問題視されていた。そのため、九七式を再設計したの後継である[[一式中戦車|一式中戦車 チヘ]]では溶接構造に変更している。
 
[[1945年]](昭和20年)7月に発行された[[アメリカ軍]]の情報報告書には、鹵獲・調査された新砲塔チハに対する保有各種火器による射撃試験結果が掲載されている<ref name="jptankchiha01">「"The Most Effective Jap Tank" from Intelligence Bulletin, July 1945」 http://www.lonesentry.com/articles/jp_type97_tank/index.html</ref>。
それによると、口径12.7mmの[[ブローニングM2重機関銃|M2 重機関銃]]では近距離である射距離100[[ヤード|yd]](約91.4m)において、あらゆる装甲箇所を貫通させる事は出来ず、射距離50yd(約45.7m)においては、一番装甲の薄い箇所である車体側面下部で35%が貫通したとしている。また新砲塔チハ正面部分の装甲は、射距離35yd(約32m)からでは車体機関銃ボールマウント部分以外は貫通しなかったとしている。この報告書では結論として、新砲塔チハに対してはM2 重機関銃では射距離50yd(約45.7m)以内での射撃が有効であるとしている。よって、九七式中戦車(57mm砲搭載型も新砲塔チハと砲塔以外の装甲厚は変わらない)に対しては、当時の日本軍の交戦国が使用していた軍用[[小銃]]弾<ref>[[徹甲弾]]など特殊な弾薬を除く。アメリカの[[.30-06弾]]など当時の7.7mm級小銃弾の威力は、M2重機関銃の[[12.7mm×99]]弾と比較した場合、[[ジュール]]換算で約20~30%前後の銃口威力しかない。</ref>の威力では、最も薄い装甲箇所であっても貫通する可能性は低かった
 
== 攻撃力 ==
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{{main|九七式五糎七戦車砲}}
[[File:Operation Ichigo2.jpg|thumb|right|250px|チハ(57mm砲搭載型)を主力とした機甲部隊(九五式軽戦車と混成)]]
本車には主砲として九七式五糎七戦車砲が搭載された。この砲は八九式中戦車に搭載された[[九〇式五糎七戦車砲]]の改良型で、砲そのものの性能は同等であるが機能及び抗堪性を向上させている<ref>「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件」6頁</ref><ref>”。尚、「九〇式戦車砲から薬室を増大、弾薬の発射装薬の改善がなされている。このため初速が350m/sから420m/sとなったという記述が散見されるが、仮制式制定段階での砲としての性能は九〇式五糎七戦車砲と同一であると思われる<ref>「九式5糎戦車砲仮制式制定の件」<br>爾後改善されたという報告も見当たらない。<br>また1945年に編纂された「陸戦兵器要目表」では両者は完全に同一のものとして扱われており、各種砲弾の初速についても旧来のままとなっている。以上のように今のところ公開された一次資料中では初速420m/sという数字は発見できない。但し制式後に、抗堪性が向上した九七式戦車砲では使用できるが九〇式戦車砲では使用できない新型徹甲弾等の採用で(その弾を使用する限りにおいては)初速が向上した可能性はあり、新資料の公開が待たれる。</ref>。発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発砲した。
 
本砲は砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれ、指向照準された。本砲の俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力である。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。砲手は照準操作しつつ片手で砲弾を装填する。したがって砲本体、弾薬などは一人で操作できうる程度の、軽量の兵装であることが要求された。砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、一式撤甲弾で3.25kgであった。この方式は日本では九〇式五糎七戦車砲から採用され、37mm戦車砲にも採用された。なお、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲である。
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== 派生型・発展型 ==
九七式中戦車は一貫して第二次大戦時の帝国陸軍主力中戦車であったため、極めて多数の派生型・発展型が存在する。これは後続の新規設計車両([[四式中戦車|四式中戦車 チト]]・[[五式中戦車|五式中戦車 チリ]])の開発と生産の遅れから本車を流用せざるを得なかった反面、車体設計自体に余裕があったことも一因である。
 
[[File:Isshikityusensya.jpg|thumb|right|150px|一式中戦車 チヘ]]
=== 一式中戦車 チヘ ===
{{main|一式中戦車}}
九七式中戦車(新砲塔チハ)をベースに、車体の装甲の強化・溶接と平面ボルトの多用・高出力エンジンの換装等を行い、防御力と機動力を強化した改良型。
 
[[File:Chi-Nu.JPG|thumb|right|150px|三式中戦車 チヌ]]
=== 三式中戦車 チヌ ===
{{main|三式中戦車}}
一式中戦車の車体をベースに、主砲に[[三式七糎半戦車砲II型]](口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装し、攻撃力をさらに強化した発展型。
 
[[File:一式砲戦車.jpg|thumb|right|150px|一式砲戦車 ホニI]]
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{{main|一式十糎自走砲}}
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に[[九一式十糎榴弾砲]](口径105mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装した自走砲。
 
[[File:Type 2 Ho-I gun tank.jpg|thumb|right|150px|二式砲戦車 ホイ]]
=== 二式砲戦車 ホイ ===
{{main|二式砲戦車}}
一式中戦車の車体をベースに、主砲に[[九九式七糎半戦車砲]](口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装した砲戦車。
 
[[File:三式砲戦車.jpg|thumb|right|150px|三式砲戦車 ホニIII]]
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{{main|超壕機 TG}}
九七式中戦車の車体をベースとした特種工兵車両。試作車。
 
==後継型==
 
[[File:Isshikityusensya.jpg|thumb|right|150px|一式中戦車 チヘ]]
=== 一式中戦車 チヘ ===
{{main|一式中戦車}}
九七式中戦車(新砲塔チハ)をベースに、車体の装甲の強化・溶接と平面ボルトの多用・高出力エンジンの換装等を行い、防御力と機動力を強化した改良後継型。
 
[[File:Chi-Nu.JPG|thumb|right|150px|三式中戦車 チヌ]]
=== 三式中戦車 チヌ ===
{{main|三式中戦車}}
一式中戦車の車体をベースに、主砲に[[三式七糎半戦車砲II型]](口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装し、攻撃力をさらに強化した発展型。
 
[[File:Type 2 Ho-I gun tank.jpg|thumb|right|150px|二式砲戦車 ホイ]]
=== 二式砲戦車 ホイ ===
{{main|二式砲戦車}}
一式中戦車の車体をベースに、主砲に[[九九式七糎半戦車砲]](口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装した砲戦車。
 
== 脚注 ==