「中島健蔵」の版間の差分

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心理学者[[中島泰蔵]]の長子(一人っ子)として[[東京市]][[麹町区]](現・[[東京都]][[千代田区]])に生まれる。父泰蔵は[[ハーヴァード大学]]で[[ウィリアム・ジェイムズ]]に教えを受け、帰国後は東京専門学校(後の[[早稲田大学]])で[[講師 (教育)|講師]]を務めた。
 
[[1909年]]、[[東京高等師範学校]]附属小学校(現・[[筑波大学附属小学校]])入学。同級に[[市原豊太]]、[[菊池正士]]、[[坪井忠二]]。少年時代は自然科学に惹かれていたが、[[1914年]]、父宛に贈られた親類[[前田夕暮]](泰蔵の姪を妻に持つ)の第三歌集『生くる日に』を読んで感銘を受け、[[短歌]]を創作して夕暮に送るも黙殺された。また、豆本「アカギ叢書」で[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]や[[ヘンリク・シェンキェヴィッチ|シェンキェヴィッチ]]を読む。
 
[[1915年]]、東京高等師範学校附属中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])に入学。附属中学の同級生には、[[下村三郎]](元[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]])、[[市原豊太]](元[[獨協大学]]学長)、[[菊池正士]](ドイツ文学者)、[[坪井忠二]](東京大学名誉教授)などがいた。この頃、[[川田順]]や[[若山牧水]]、[[窪田空穂]]の[[短歌]]に心酔。小説家では[[国木田独歩]]、[[夏目漱石]]、[[森鴎外]]、[[有島武郎]]、[[芥川龍之介]]などに傾倒。
 
[[1919年]]、父を[[結核]]で亡くす。このころ、附属中の1年後輩である[[諸井三郎]]を中心とする音楽グループに接近。詩人[[菊池香一郎]](こういちろう)の弟[[菊池武彦]]の影響で[[仏文学]]に関心を持つ。[[1920年]]、東京[[筑波大学附属中学校・高等師範学校|東京高師附属中学校]]卒業。[[1921年]]まで同校の補習科に通う。
 
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]理科甲類を二度受験して失敗し、[[1921年]]、[[松本高等学校 (旧制)|旧制松本高等学校]]文科乙類入学。[[ドイツ語]]を第一外国語として学ぶクラスであることに飽き足らず、フランス人神父セスランのもとで[[フランス語]]の個人教授を受ける。
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==関連項目==
* [[筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧]]
*[[日本中国文化交流協会]] 設立に関わった。
* [[第一高等学校 (旧制)の人物一覧]]
* [[日本中国文化交流協会]] - 設立に関わった。
 
{{DEFAULTSORT:なかしま けんそう}}