「ズヴィアド・ガムサフルディア」の版間の差分

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[[1977年]][[4月7日]]、コスタワと共に逮捕され、[[1978年]]夏、[[ダゲスタン共和国|ダゲスタン]]に2年間追放の刑を宣告される。[[1979年]]6月、特赦。帰国後、グルジア科学アカデミー・グルジア文学研究所で先任科学職員として働く。
 
[[1988年]]~[[1991年]]、聖イリヤ・プラヴェドヌイ協会共同議長、「円卓-自由グルジア」(グルジア円卓会議)ブロックの指導者。[[1990年]]11月からグルジア[[最高会議]]議長。[[1991年]][[5月26日]]初代のグルジア大統領に選出される。民主派、改革派として政治的経歴を重ねたガムサフルディアであったが、政権掌握後は次第に強権独裁的な政治手法に終始し、反対派野党からは独裁者と非難を浴びた。
 
[[1992年]][[1月6日]]、[[クーデター]]によりグルジアから追放され、[[チェチェン共和国]]へ亡命した。[[1993年]]9月に帰国したが、同年[[12月31日]]、グルジア西部のサメグレロで戦死。後にチェチェンの首都[[グロズヌイ]]に埋葬された。しかし、その後始まった[[チェチェン戦争]]によってガムサフルディアの墓は紛失し、行方が分からなくなっていたが、2007年に墓の場所が明らかになり、遺体は検視の後に改葬のためグルジアに運ばれた。改葬式は[[トビリシ]]の教会で行われ、[[ミヘイル・サアカシュヴィリ]]大統領など多くの市民が参列した
 
[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]政権では独裁者だったとして否定的に評価されていたが、近年、グルジアを分裂から救おうとした民族主義者として名誉回復されており、自身も強硬なグルジア民族主義者として知られるサアカシュヴィリ大統領もガムサフルディアを「立派な政治家であり、愛国者だった」と称賛している。その他にもトビリシの幹線道路にガムサフルディアの名を冠したり、シェワルナゼ政権下で拘束されていたガムサフルディアの支持者32人を釈放している。
 
== パーソナル ==