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[[ファイル:Classical Definition of Knowledg - ja.svg|thumb|250px|right|[[知識]]とは、真であり、かつ、信じられている[[命題]]の[[部分集合]]であるとの定式はプラトンに起源をもつ。]]
=== 多義性 ===
多義的な語なので注意が必要である。日本語の「認識論」は独語のErkenntnistheorieの訳語である<ref name="kamiwaka">後掲[[#神川|神川正彦によるYahoo!百科事典の認識論]]</ref>。ドイツで初めてこの語を用いたのはドイツの哲学者K・ラインホールトであると言われているが、もちろん認識論的な問題そのものは古代ギリシアから存在した<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
英語のEpistemologyと仏語のÉpistémologieの語源は、ギリシア語の「知」(epistēmē、エピステーメー)と、合理的な言説(logos、ロゴス)を合成したものであり、スコットランドの哲学者J・フェリエが[[1854年]]に出版した「形而上学概論」で初めて使用したとされる<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
英語のEpistemologyはtheory of knowledgeと互換的な意味あいがあるが、仏語のÉpistémologieはそのような意味合いはなく、あくまで科学哲学の一つの方法論ないし理論であり、日本語では「科学認識論」と訳される<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。仏語の[[:fr:Théorie de la connaissance|Théorie de la connaissance]]はグノセオロジー([[:fr:Gnoséologie|Gnoséologie]])とも呼ばれる。
 
=== 特徴 ===
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=== 哲学的認識論と科学的認識論 ===
認識論は、今日、「哲学的認識論」と、20世紀にフランスで生まれた「科学的認識論」の二つに大別され、哲学的認識論についても古典的認識論と現代的認識論の区別が必要であるとされる<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。そこで、以下に、まずは歴史の流れに沿って哲学的認識論について解説する。
 
== 哲学的認識論の歴史 ==
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=== 認識の起源 ===
哲学的認識論の第一の問題は、人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか、人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか、という認識の起源の問題である<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。おおむね四つの立場がある。
 
==== 合理主義 ====
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=== 認識の本質 ===
哲学的認識論の第二の問題は、人間にとって[[不可知論|不可知]]の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのかという問題である。これは認識主体たる意識と認識客体という対立するいずれの項に基本を置いて認識の本質を規定するのかという問題でもあり、[[観念論]]と[[実在論]]が対立した<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
実在論は、素朴実在論を批判して、物体の第一性質と第二性質を分けるロックの主張があり、[[科学的実在論]]と呼ばれる<ref>{{Yahoo!百科事典|実在論|author=[[杖下隆英]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96/ 「実在論」(Yahoo!百科事典)]}}</ref>。
 
観念論は、主観的観念論の立場に立つものとしてバークリが挙げられることが多いが、その主張は複雑である<ref>{{Yahoo!百科事典|観念論|author=[[坂部恵]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96/ 「観念論」(Yahoo!百科事典)]}}</ref>。
 
カントにおいては、現象は、物自体と対比され、物自体と主観との共同作業によって構成される。別の言い方をすると、現象というのは物自体に主観の構成が加わった結果のものであるとし、人は現象が構成される以前の物自体を認識することはできない、とした。[[1781年]]に出版した『[[純粋理性批判]]』の中で、カントは人間の持つ[[理性]]がどのようなものであるかを、分析した。そしてその分析を通じて、人間の理性は、どんな問題でも扱える万能の装置ではなく、扱える問題について一定の制約・限界を持ったものであることを論じた。そして人間の理性によって扱えないような問題の例として、カントは純粋理性のアンチノミーという四つの命題の組を例示し、ライプニッツが行ったような形而上学的、神学的な議論は、原理的に答えを出せない問題であり、哲学者が真剣に議論すべきものではない、と斥けた。
 
カントは純粋理性批判の中で、次の四つのアンチノミーを例示した<ref>[[#it2007伊藤2007|伊藤 (2007)]], ppp.112-128]]</ref>。
# 世界は時間的、空間的に有限である/世界は無限である
# 世界はすべて単純な要素から構成されている/世界に単純な構成要素はない
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# 世界の原因の系列をたどると絶対的な必然者に至る/系列のすべては偶然の産物で、世界に絶対的必然者は存在しない
 
[[アンチノミー]](二律背反)とは、ある[[命題]]([[テーゼ]]、定立)と、その否定命題([[アンチテーゼ]]、反定立)が、同時に成立してしまうような場合を言う<ref>[[#km2002熊野2002|熊野 (2002)]], p.20]]</ref>。つまり「Aである」と「Aでない」が、が同時に成り立つような場合を言う。この四つの命題の組は、そのどちらを正しいとしても矛盾が生じるものであり、このどちらかが正しいという事を、理性によって結論付けることは不可能、つまり議論しても仕方のない問題だ、とカントは論じた。それぞれについて簡単に内容を説明しておくと、第一のものは時間に始まりはあるか、空間に果てはあるか、という問題、第二のものは[[原子]]や[[素粒子]]といったこれ以上分割できない最小の構成要素があるかどうかの問題、第三のものは[[自由意志]]と[[決定論]]の問題、そして第四のものは世界の第一原因と神の存在の問題である。
 
カントによる形而上学批判は、以降の西洋の哲学に大きい影響を与えることとなり、[[神の存在証明]]や宇宙の始まりなどの形而上学的な問題は、哲学の中心的なテーマとして議論される傾向は抑制されていった。
 
=== 真理論 ===
哲学的認識論の第三の問題は、ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか、という[[真理|真理論]]の問題である<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
古典的な哲学的認識論としての真理の問題に関する見解はおおまか以下の四つに分類することができる<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
プラトン・アリストテレス以来の古典的な伝統的を引き継ぐ見解として、実在と観念との一致であるとする「対応説」である。アリストテレスは、その著書『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』において、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている<ref name="iwa_philo">『岩波哲学・思想事典』「真理」の項目</ref>。カントにおいては、認識と現象が同時に成立するので厳密な意味での「対応」ではないが、基本的には対応説であるとされている<ref name="iwa_philo">『岩波哲学・思想事典』「真理」の項目< /ref>。
 
次いで、デカルトによって始まる、意識に対して明証的に現れるものを真理とみる「明証説」があり、これはフッサールがその立場を引き継いだ。また、スピノザに始まる、認識が体系内で論理的に矛盾がないかどうかで判定する「整合説」がある。その萌芽は、中期プラトン、ライプニッツにもみることができる<ref name="iwa_philo">『岩波哲学・思想事典』「真理」の項目< /ref>。さらに、[[ニーチェ]]、[[プラグマティズム]]の立場から主張されるに至った、行為の結果の有効性で真偽を判定する「有用説」もある。これら三つはいずれも主観主義の一形態を見ることができる<ref>{{Yahoo!百科事典|真理|author=[[加藤信朗]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%90%86/ 「真理」(Yahoo!百科事典)]}}</ref>
 
=== 古典的認識論から現代的認識論へ ===
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[[フィヒテ]]に始まり、[[ヘーゲル]]によって完成を見た[[ドイツ観念論]]は、理性によって現象と物自体の区別を乗り越えるような形で発展した。ヘーゲルによれば、カントの認識論は、認識の限界を認識するという循環論法的な議論であって、それはあたかも水に入る前に水泳を習うようなものであって、本来的に不可能である。ヘーゲルの批判は認識論にとって本質的な異議であったが、ヘーゲルの死後、[[ヘーゲル学派]]は分裂・対立を繰り返して崩壊し、かえって哲学の危機の時代を招いた。
 
その後、さまざまなバリエーションがあるものの、二項対立図式そのものが放棄されるべきではないかが議論されるようになった<ref name="kamiwaka">後掲神川< /ref>。
 
まず、当時の[[自然科学]]、とりわけ[[物理学]]の飛躍的な発展に背景にした二項対立図式の乗り越えがある。[[エルンスト・マッハ]]は、ニュートン力学の絶対空間の概念に形而上学の残滓が残っていると考え、自然科学は形而上学概念を排した思考以前の純粋要素である感覚からすべて説明されるべきであり、概念や法則は思考を経済化するためものにすぎないとした。このような感覚を「純粋経験」とよび、主観と客観の対立を原理的に同格とみなした。マッハの哲学は、アメリカの[[プラグマティズム]]や[[ウィーン学団]]の[[論理実証主義]]に多大な影響を与えた。ウィーン学団は、マッハの他にも、[[ウィトゲンシュタイン]]の[[論理哲学論考]]から多大な影響を受けているが、そのメンバーの多くがユダヤ人であったことから、ナチスの弾圧を受け、これから逃れるために参加者の多くは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命し、学団自体は立ち消えになったが、その考えが米英に広まり、英米系の現代的認識論に多大な影響を及ぼすことになった。
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[[基礎付け主義]](foundationalism)とは、認識主体が何かを信じるための正当化を持つかどうかは、その認識主体のなんらかの基礎的な信念、またはそれに類似する心的状態に最終的に依拠するという立場。これらの信念ないし心的状態は、他の信念、心的状態を正当化するものでありながら、それら自体は(他の信念、心的状態によっては)正当化されないため、基礎的と呼ばれる。基礎付け主義は、伝統的には[[センス・データ論]]の形をとって展開された。
 
[[ウィルフリッド・セラーズ]]は、センス・データ論を、所与の神話(myth of the given)の典型的な形態として批判する<ref>ウィルフリド・[[#セラーズ著『経験2006|セラーズ (2006)]]{{要ページ番号|date=2011年12月}}</ref>。センス・データでは、非言語的な所与して哲学』[[神野慧一郎]]センス[[土屋純一]]・[[中才敏郎]]訳データが勁草書房命題内容をもつ信念を最終的に正当化すると考える。しかし2006 もしセンスデータが非言語的なものであり、正当化がある種の推論関係と捉えられるならば、非言語的であり命題内容を持たないセンス・データが、どうやって命題内容をもつ信念と推論-正当化関係に立つのかが謎になる。
</ref>。センス・データ論では、非言語的な所与としてのセンス・データが、命題内容をもつ信念を最終的に正当化すると考える。しかし、もしセンスデータが非言語的なものであり、正当化がある種の推論関係と捉えられるならば、非言語的であり命題内容を持たないセンス・データが、どうやって命題内容をもつ信念と推論-正当化関係に立つのかが謎になる。
 
==== 整合説 ====
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====== 信頼性主義 ======
信頼性主義(reliabilism)と呼ばれる立場で、最も有名なものは、プロセス信頼性主義であり、正当化に関する外在主義の中心的な立場である。プロセス信頼性主義によれば、ある信念が正当化されるためには、その信念が信頼のおける認知プロセスによって形成されることが必要である。D.M.アームストロング([[:en:David Malet Armstrong]])によって提唱された<ref>[[#戸田山2002|戸田山 (2002)]]pp52pp.52-56</ref>。
 
====== 知識の因果説 ======
知識の因果説(causal theory of knowledge)とは、ある信念が知識かどうかは、その信念が、因果的に適切な仕方で生じたかどうかによって決まるという立場。アルヴィン・ゴールドマン([[:en:Alvin Goldman]])によって提唱された<ref>[[#戸田山2002|戸田山 (2002)]]pp62pp.62-64</ref>。
 
====== 決定的理由分析 ======
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==== 閉包原理 ====
閉包原理(closure principle)とは、(ある仕方で解釈された)デカルトの懐疑論が依存しているとされる原理の一つで、認識主体がAを知っており、かつ、AからBが論理的に導けるということを知っているならば、その認識主体はBを知っている、という原理である<ref>[[#戸田山2002|戸田山 (2002)]]pp94pp.94-98</ref>。言い換えれば、知識は既知の論理的含意のもとで閉じている。閉包原理を否定するならば、欺く神に騙されているかどうかを知らないことは、様々なことを知っているということと両立可能である。閉包原理と呼ばれるものはこれ以外にも幾つかあり、どの原理が正しいかを巡る議論が行われている。
 
==== 文脈主義 ====
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===発生的認識論===
[[ジャン・ピアジェ]]は、[[心理学者]]として、とりわけ[[発達心理学]]で著名であるが、もともとは古典的認識論の諸問題を解決する糸口を[[生物学]]・[[心理学]]に求め、「発生的認識論」([[:de:Genetische Epistemologie]])を提唱した<ref>M.Hewstoneetc.{{Cite book|author=Miles Hewstone|coauthors=Frank Fincham, Jonathan Foster|year=2005|month=June|title=Psychology,|series=BPS Textbooks in Psychology|publisher=Wiley-Blackwell,2005|isbn=0631206787|ref=Hewstone2005}}{{要ページ番号|date=2011年12月}}</ref>。彼は、多数の実験により幼児の認識の発達段階を解明した上で、認識は対象から独立しており、決して対象に到達することはないが、同時に対象によって支えられているという点で構成的なものであるとする。また、発生的認識論は哲学ではなく、科学であり、極めて専門的・集団的なものであるとの考えから、1955年、発生的認識論国際センターをジュネーヴに設立し、世界中のさまざまな分野の研究者たちとの共同研究を晩年まで精力的に行ない、現在も多くの学者が共同で研究を続けている。
 
===進化論的認識論===
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=アリストテレス|authorlink=アリストテレス|others=[[桑子敏雄]]訳|year=1999|month=2|title=心とは何か|series=[[講談社学術文庫]] 1363|publisher=講談社|isbn=4-06-159363-3|url=http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1593633|ref=アリストテレス1999}}
*神川正彦『認識論』(Yahoo!百科事典)
*{{Cite book|和書|author=伊勢田哲治|authorlink=伊勢田哲治|year=2004|month=7|title=認識論を社会化する|publisher=名古屋大学出版会|isbn=4-8158-0489-3|url=http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0489-3.html|ref=伊勢田2004}}
*[[戸田山和久]]『知識の哲学』産業図書、2002年 ISBN 4-78-280208-0
*{{Cite book|和書|author=伊藤邦武|authorlink=伊藤邦武|year=2007|month=11|title=宇宙を哲学する|series=双書 哲学塾|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-028156-0|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/9/0281560.html|ref=伊藤2007}}
*[[伊勢田哲治]]『認識論を社会化する』名古屋大学出版会、2004 ISBN 4815804893
*{{Anchor|神川|}}{{Yahoo!百科事典|認識論|author=[[神川正彦]]}}
*プラトン著『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』、[[渡辺邦夫]]訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004 ISBN 4480088180
*{{Cite book|和書|author=熊野純彦|authorlink=熊野純彦|year=2002|month=11|title=カント 世界の限界を経験することは可能か|series=シリーズ・哲学のエッセンス|publisher=日本放送出版協会|isbn=4-14-009303-X|url=https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00093032002|ref=熊野2002}}
*アリストテレス著『[[霊魂論|心とは何か]]』[[桑子敏雄]]訳、講談社〈講談社学術文庫〉、1999 ISBN 4061593633
*{{Cite book|和書|first=ウィルフリド|last=セラーズ|authorlink=ウィルフリド・セラーズ|others=[[浜野研三]]訳|year=2006|month=3|title=経験論と心の哲学|publisher=岩波書店|isbn=4-00-022752-1|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/0227520.html|ref=セラーズ2006}}
*ウィルフリド・セラーズ著『経験論と心の哲学』神野慧一郎・土屋純一・中才敏郎訳、勁草書房、2006 ISBN 4000227521
*{{Cite book|和書|author=戸田山和久|authorlink=戸田山和久|year=2002|month=6|title=知識の哲学|series=哲学教科書シリーズ |publisher=産業図書|isbn=4-7828-0208-0|ref=戸田山2002}}
*ドミニック・ルクール著『科学哲学』沢崎壮宏・竹中利彦・三宅岳史訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2005 ISBN 4-560-50891-7
*{{Cite book|和書|first=ジャン|last=ピアジェ|authorlink=ジャン・ピアジェ|others=[[滝沢武久]]訳|year=1972|month=7|title=発生的認識論|series=[[文庫クセジュ]] Q519|publisher=白水社|isbn=4-560-05519-X|url=http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=05519|ref=ピアジェ1972}}
*ハンス・ゲオルグ・ガダマー・カール=オットー・アーペル著、竹市明弘編『哲学の変貌―現代ドイツ哲学』岩波現代選書、1984
*{{Cite book|和書|author=プラトン|authorlink=プラトン|others=[[渡辺邦夫]]訳|year=2004|month=3|title=テアイテトス|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-08818-0|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088185/|ref=プラトン2004}}
*ジャン・ピアジェ著『発生的認識論』滝沢武久訳、白水社〈文庫クセジュ〉、1972 ISBN 456005519X
*{{Cite book|和書|first=ドミニック|last=ルクール|authorlink=ドミニック・ルクール|others=[[沢崎壮宏]]・[[竹中利彦]]・[[三宅岳史]]訳|year=2005|month=8|title=科学哲学|series=[[文庫クセジュ]] Q891|publisher=白水社|isbn=4-560-50891-7|url=http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=50891|ref=ルクール2005}}
* <cite style="font-style:normal" id="it2007">[[伊藤邦武]] (2007) 『宇宙を哲学する』 <双書 哲学塾> 岩波書店 ISBN 978-4000281560</cite>
*{{Cite book|和書|author=[[ハンス・ゲオルク・ガーダマー|ガーダマー, ハンス・ゲオルク]]ほか|editor=[[竹市明弘]]編|year=1984|month=4|title=哲学の変貌 現代ドイツ哲学|series=岩波現代選書 88|publisher=岩波書店|isbn=4-00-004757-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/4/0047570.html|ref=ガーダマー1984}}
* <cite style="font-style:normal" id="km2002">[[熊野純彦]] (2002) 『カント―世界の限界を経験することは可能か』 <シリーズ・哲学のエッセンス> 日本放送出版協会 ISBN 978-4140093030</cite>
**{{Cite book|和書|author=[[ハンス・ゲオルク・ガーダマー|ガーダマー, ハンス・ゲオルク]]ほか|editor=[[竹市明弘]]編|year=2000|month=9|title=哲学の変貌 現代ドイツ哲学|series=岩波モダンクラシックス|publisher=岩波書店|isbn=4-00-026537-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/7/0265370.html|ref=ガーダマー2000}}
 
== 関連項目 ==
* [[コウモリであるとはどのようなことか]]
* [[心の哲学]]
* [[霊魂論|心とは何か]]
* [[水槽の脳]]
* [[心理学]]
* [[水槽の脳]]
* [[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]
* [[認識論理]]
* [[認知]]
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== 外部リンク ==
*{{Yahoo!百科事典|認識論|author=[[神川正彦]]}}
*[[神川正彦]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%AA%8D%E8%AD%98%E8%AB%96/ 「認識論」(Yahoo!百科事典)]
*[http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~tiseda/works/epistemology.html 伊勢田哲治による『知識の哲学』の書評]
*[http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968&cdvol=38&noissue=2&startpage=145&lang=ja&from=jnltoc 中山康雄による『認識論を社会化する』の書評]