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'''堀 親昌'''(ほり ちかまさ、[[慶長]]11年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]([[1606年]][[5月14日]]) - [[寛文]]13年[[7月16日 (旧暦)|7月16日]]([[1673年]][[8月27日]]))は、[[江戸時代]]の大名。[[下野国|下野]][[烏山藩]]第2代藩主で[[信濃国|信濃]][[信濃飯田藩|飯田藩]]初代藩主。飯田藩堀家2代。
 
初代藩主[[堀親良]]の長男。正室は[[杉原長房]]の娘。継室は[[青山幸成]]の娘、[[内藤信正]]の娘、[[三条西実条]]の娘。子に[[堀親貞]](長男)、[[清水谷実業]]。幼名・吉千代、又七郎。官位は従五位下、[[美作国|美作]]守。
 
堀親良の嫡男として生まれる。[[寛永]]14年([[1637年]])、父の死去により[[家督]]を相続。この時、次弟・[[堀親智]]に3000石、三弟・[[堀親泰]]に2000石を分与した。親昌は領内で検地を実施する一方、[[烏山城]]の改修を行ない藩政の基盤を固めた。寛文12年([[1672年]])、信濃飯田2万石に転封。延宝元年(1673年)死去した。後を長男・親貞が継いだ。