「源田実」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 海軍航空搭乗員へ ===
源田実は、{{和暦|1904}}8月16日[[広島県]][[山県郡 (広島県)|山県郡]][[加計町]](現・山県郡[[安芸太田町]])で農家を営む源田春七の六男二女の次男として生まれた。<ref>[[#海軍航空隊始末記]]372頁</ref>{{和暦|1921}}、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に海兵52期として入学する。同期に[[淵田美津雄]]、[[柴田武雄]]、[[高松宮宣仁親王]]、[[福地周夫]]らがいる。源田は小柄だったが身体は頑健であったという<ref>[[#海軍航空隊発進]]16頁</ref>。{{和暦|1927}}2月、海軍砲術砲術学校普通科学生(少尉)時に航空関係の講習・身体検査・操縦を受ける<ref>[[#海軍航空隊発進]]17頁</ref>。[[装甲巡洋艦]]「[[出雲 (装甲巡洋艦)|出雲]]」勤務を経てから{{和暦|1928}}12月に12月[[霞ヶ浦海軍航空隊|霞ヶ浦航空隊]]に入隊、第19期飛行学生を拝命する<ref>[[#生出・源田]]330頁</ref>。源田によれば『この転勤辞令ぐらい嬉しいと思った辞令は、海軍生活二十四年間を通じて、一度もなった』という<ref>[[#海軍航空隊発進]]20-21頁</ref>。当時の日本海軍航空隊は揺籃期であり、練習航空隊は霞ヶ浦だけ、基地航空隊は3箇所(横須賀、大村、佐世保、各航空隊)、[[航空母艦]]は「[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]」「[[赤城 (空母)|赤城]]」があるのみだった<ref>[[#海軍航空隊発進]]22頁</ref>。
 
源田は{{和暦|1929}}12月、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊に配属となる<ref>[[#海軍航空隊発進]]43頁</ref>。翌年2月、[[多段式空母]]「[[赤城 (空母)|赤城]]」に戦闘機分隊第二小隊編隊長([[一〇式艦上戦闘機]])として着任した<ref>[[#海軍航空隊発進]]61頁</ref>。12月、大尉(横須賀航空隊付)<ref>[[#海軍航空隊発進]]77頁</ref>。日本海軍は英国からチャッペル少佐とウィンゲート大尉を招いて航空教官とし講義を開き、源田も参加した<ref>[[#海軍航空隊発進]]78-79頁</ref>。戦闘機による制空権奪取の重要性を説いたチャッペル少佐の講義を受け戦略的に活かせる立場についたのは源田はくらいだっと言う。<ref>[[#海軍航空隊発進]]83頁</ref>。源田によればもっと広く海軍一般で研究されるべきでものであり残念であるという。<ref>源田実『海軍航空隊始末記発進編』文藝春秋新社1961年 65頁</ref>
三菱重工の[[九試単座戦闘機]]では横空の意見として格闘性能への不安を述べるがテストの結果格闘性能にも優れていることがわかり不明を謝罪し熱心な支持者となった。<ref>[[#海軍航空隊発進]]157頁、堀越二郎・奥宮正武『零戦』学研M文庫97頁、堀越二郎『零戦―その誕生と栄光の記録 (カッパ・ブックス―名著復刻シリーズ)』光文社1995/06 45-46頁</ref>源田によれば当時横空副長兼教頭だった[[大西瀧治郎]]は1934年末から一年ほど同勤であったが数年に匹敵する意義を持ち戦術思想、人生観に大きく影響したという。<ref>[[#海軍航空隊発進]]163頁</ref>
 
なお源田は[[マル3計画|第三次海軍軍備補充計画]]における[[大和型戦艦]]2隻([[大和 (戦艦)|大和]]、[[武蔵 (戦艦)|武蔵]])の建造を厳しく批判しているが<ref>[[#海軍航空隊発進]]184頁</ref>、同計画では[[翔鶴型航空母艦]]2隻([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]])の建造も決定している。
 
=== 航空参謀/日中戦争 ===
源田は高等科学生の受験を避けたというが、海軍大学は大西に「日ごろ訴える航空政策を実現したければそれなりの下地が必要で高効率の軍備を作り上げてもらいたい」と説得され{{和暦|1935}}入学、海軍大学校甲種学生となった<ref>[[#海軍航空隊発進]]177頁</ref>。
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