「ハインリッヒ・エドムント・ナウマン」の版間の差分

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調査は[[本州]]、[[四国]]、[[九州]]と広範囲にわたり、距離は10,000kmに及んだと伝えられている。また、当時存在した[[地形図]]には[[等高線]]が記されておらず、[[海岸線]]の輪郭が記される[[大日本沿海輿地全図|伊能図]]を基に、地形図の作成と並行して地質調査をするという膨大な作業を成し遂げた。
 
ナウマンは[[貝塚]]を2、3発見し、[[ハインリッヒ・シーボルト]]の貝塚研究を助けた。
 
[[関東大震災]]で東大図書館が焼け落ちたときに、自分の蔵書を寄贈した。
 
彼は、ドイツに帰ってから、ナウマンは[[1886年]]に[[ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学|ミュンスター大学]]で[[私講師]]となり、[[地質学]]や[[地理学]]を講じた。後年、ドイツ東亜博物学[[民俗学]]協会で日本の貝塚について講演している。その時在独中の[[森林太郎]](鴎外)がその誤りを正したという逸話もある。
 
== 脚注 ==
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[[Category:ヴァイマル共和国の人物]]
[[Category:明治時代のお雇い外国人]]
[[Category:ヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学の教員]]
[[Category:東京大学の教員]]
[[Category:1854年生]]
[[Category:1927年没]]