「マドンナの歌手活動の歴史」の版間の差分

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Ambergris (会話 | 投稿記録)
ソロ・デビューからライク・ア・ヴァージンの整理
Ambergris (会話 | 投稿記録)
1990 to 1994: ブロンド・アンビション・ツアーからベッドタイム・ストーリーズ
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== 1986 to 1989: トゥルー・ブルーからライク・ア・プレイヤー==
[[1986年]]の1月には夫のショーン・ペンとの共演する映画「上海サプライズ」の制作を始める。そのためロンドンのヒースロー空港に到着した二人だが、集まったパパラッチの騒動の中、カメラマンが、夫妻の乗るリムジンにぶつけられるという珍事が起こる。3月には第12回ピープルズ・チョイス・アワードで「最も人気のある女性音楽パフォーマー」に選ばれる。4月にはアルバム『[[トゥルー・ブルー (アルバム)|トゥルー・ブルー]]』からの先行シングルである「リヴ・トゥ・テル」が発表される。当時この曲はショーン・ペンの主演映画「ロンリー・ブラッド (At Close Range)」の主題歌でもあった。6月には全米第一位に輝く。6月18日には第二弾シングル「[[パパ・ドント・プリーチ]]」が発表される。当時アメリカ社会で問題になっていた10代の妊娠について書かれたこの曲は社会政治団体を巻き込んだ論争となる。30日には「パパ・ドント・プレーチ」のヴィデオと共に3rd3枚目のスタジオ・アルバム『[[トゥルー・ブルー (アルバム)|トゥルー・ブルー]]』が発売される。全曲の作詞やプロデュースを担当し、高いアーティスト性を発揮し始めた。全世界28ヵ国で1位を記録する大ベストセラーになり、1988年の『[[ギネス・ワールド・レコーズ|ギネスブック]]』にも認定された。9月には第三回MTV Video Music Awardsでヴィデオ・バンガード・アワードを受賞される。同じく9月には映画「上海サプライズ」が公開されるが、批評的そして商業的にも不発に終わる。12月にはチャート第一に輝いた「オープン・ユア・ハート」が発表。フランスの映像の奇才、ジャン・バプティスト・モンディーノによるヴィデオが話題になる。
 
[[1987年]]の1月には、第14回アメリカン・ミュージック・アワーズで「パパ・ドント・プリーチ」が「最も人気のある女性アーティストによるヴィデオ」を受賞する。2月には「オープン・ユア・ハート」が全米チャート第一位に輝く。ローリング・ストーン誌の第11回読者投票により、最優秀女性アーティストそして最もセクシーな女性アーティストに選ばれる。3月には第13回ピープルズ・チョイス・アワードで「最も人気のある女性音楽パフォーマー」に選ばれる。4月には「フーズ・ザット・ガール・ツアー」のリハーサルが始まる。5月には「ラ・イスラ・ボニータ」が全米チャート第四位に上る。6月にはアメリカの人気番組「ジョニー・カーソン・ショー」に出演、マドンナ初のトーク・ショー出演であった。そして初のワールドツアー「フーズ・ザット・ガール・ツアー」を敢行。6月14日にマドンナが日本公演のため2度目の来日を果たし、大阪に到着。2千人のファンが空港にマドンナを迎え入れ、千人の警官が動員されるという大騒動になった。いわゆる「マドンナ旋風」が巻き起こった。東京の後楽園スタジアムでのコンサートは台風のため中止、これに落胆したファン達が暴動化するなどの騒ぎが起こった。その後ツアーは全米を回り、ヨーロッパで9月に完結する。7月には彼女主演の映画のサウンドトラックである「フーズ・ザット・ガール」が発表される。映画は8月に発表されるが、またしても不発に終わる。それとは反対にアルバムからは、全米チャート第一位に輝いたタイトル曲を含め、「コモーション」がそれぞれ大ヒットする。10月にはアメリカのフォーブ誌で年間最も稼いだ女性エンターテーナーとして掲載された。11月にはリミックス・アルバム「[[ユー・キャン・ダンス]]」を発表。すでにこの時期にはマドンナとショーンの結婚は陰りを見せ始めており、マドンナはロスの最高裁判所に最初の離婚届をだす。この離婚届は12月にマドンナ自身により破棄された。
 
[[1989年]]には4thアルバム『[[ライク・ア・プレイヤー]]』を発表する。同名のファーストシングルのプロモーションビデオで[[十字架]]を燃やすなどの大胆な演出を用い、世界的な[[宗教]]上の議論を巻き起こした。交際が噂された[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]との[[デュエット]]曲も含む。同年、[[ペプシコーラ]]社との間で、[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]出演料として6億円の契約を結ぶ。
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== 1990 to 1994: ブロンド・アンビション・ツアーからベッドタイム・ストーリーズ ==
1990年
* アルバム『アイム・ブレスレス』からの2nd3月シングル「[[ヴォーグ (曲)|ヴォーグ]]を発表このプロモーションビデオの振り付け(で披露されたヴォーキングが流行して590600万枚以上を記録する大ヒットに。同年4月には通算3度目のツアーである「ブロンド・アンビション・ツアー」を敢行、当時完成したばかりの千葉マリーン・スタジアムを皮切りに4ヶ月間に渡って日本、北米、ヨーロッパを回る57公演を行う。ジャン=ポール・ゴルティエによるコーン・ブラの衣装とポニーテールの髪型、性と宗教をテーマにした演出はヨハネ・パウロ2世を始めとする宗教団体を巻き込んだ話題と論争になった。5月、ウォーレン・ベイティー監督の映画『ディック・トレイシー』に出演したキャラクターを基に作られたアルバム『[[アイム・ブレスレス]]』を発表する。映画自体は6月に公開された。11月には、初のベストアルバム『[[ウルトラ・マドンナ~グレイテスト・ヒッツ]](原題:The(The Immaculate Collection)』を発売。ソロ・アーティストのベスト・アルバムでは史上最高の売り上げを記録し、なお、世界中で驚異的に売れ続け、3千万枚を超えるロングセラーとなっている。
* 更に、同年2度目のワールドツアーとなる「ブロンド・アンビション・ツアー」を敢行。前回と同様日本からスタート。
 
1991年
1月には『ウルトラ・マドンナ~グレイテスト・ヒッツ』からの第一弾シングル『ジャスティファイ・マイ・ラヴ』が全米一位になる。プロモーションビデオでの同性愛からボンデージなど性的表現が過激と見なされMTV史上初の放送禁止になった。4月のカンヌ映画祭において、ブロンド・アンビション・ツアーの舞台裏から彼女の私生活までを赤裸々に綴ったアレック・ケシシアン監督の[[ドキュメンタリー]]映画『[[イン・ベッド・ウィズ・マドンナ]]』が初公開される。公開当時、ドキュメンタリー映画史上最高の世界興行記録を更新した。
* シングル『Justify My Love』のプロモーションビデオは過激な性的表現が多い上、『[[聖書]]』を冒涜するシーンがあるとして放送禁止になった。映画『ディック・トレイシー』で共演した[[俳優]][[ウォーレン・ベイティ]]との交際を公にしていた。
* ブロンド・アンビション・ツアーの舞台裏などを過激に綴った[[ドキュメンタリー]]映画『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』が公開される。
 
*[[1992年]]に米タイム・ワーナーと当時としては破格の6千万ドルで契約。この契約により総合エンターテイメント会社「マヴェリック(Maverick)」を設立し、社長に就任する。10月には初の著作となる『[[SEX (写真集)|SEX]]を発表6th[[スティーブン・マイゼル]]による過激な性的描写の写真が世界的に話題となり、米国社会では論議を醸す。また、6枚目のスタジオ・アルバム『[[エロティカ (アルバム)|エロティカ]]』を同時発売。同じく性をテーマにしたアルバムだが実際には過激な内容の曲はごく一部で、エイズ渦を取り上げた「In This Lifeイン・ディス・ライフ」をはじめ社会性を意識し、精神の高い曲が多いのだがしかしイメージ先行が災いして売上は伸び悩んだ。ただし日本では史上最多4度目の日本ゴールドディスク大賞洋楽部門アーティスト・オブ・ザ・イヤーに輝くヒットとなった。
1992年
* [[1992年]]に米タイム・ワーナーと6000万ドルで契約。この契約により総合エンターテイメント企業「MAVERICK」を設立し、社長に就任する。
* 写真集『SEX』、6thアルバム『[[エロティカ (アルバム)|エロティカ]]』を同時発売。アルバムは実際には過激な内容の曲はごく一部で、エイズ渦を取り上げた「In This Life」をはじめ社会性・精神性の高い曲が多いのだが、イメージ先行が災いしてか売上は伸び悩んだ。ただし日本では史上最多4度目の日本ゴールドディスク大賞洋楽部門アーティスト・オブ・ザ・イヤーに輝くヒットとなった。
* さらに、映画『ボディ』(Body of Evidence)の主役を演じる。腹上死をテーマにした映画で、キャッチコピーは「セックスで人を殺せるか」。前年に公開された[[シャロン・ストーン]]主演の映画『[[氷の微笑]]』と内容が酷似しており、評判は最悪、興行収入も惨憺たるものだった。
 
1993年
* さら1月は主役映画『[[BODY/ボディ]]』(Body of Evidence)の主役を演じが公開される。腹上死をテーマにした映画で、キャッチコピーは「セックスで人を殺せるか」。前年に公開された[[シャロン・ストーン]]主演の映画『[[氷の微笑]]』と内容が酷似しており、評判は最悪、興行収入も惨憺たるものだった。
* 3度目のワールドツアー「ザ・ガーリーショウ・ツアー」を敢行。初の南米ツアーも実施、アメリカやヨーロッパ以外での諸国でも公演が行なわれた。最終公演は日本で(福岡・東京)開催され、計8公演で約40万人を動員する。
* 4度目のワールドツアー「ザ・ガーリーショウ・ツアー」を敢行。初の南米ツアーも実施、アメリカやヨーロッパ以外での諸国でも公演が行なわれた。最終公演は日本で(福岡・東京)開催され、計8公演で約40万人を動員する。シングル『Rainレイン』のPVがMTV Video Music AwardにてBest Art Direction部門とBest Cinematography部門を受賞した。
 
ヘアースタイルの急変
デビュー後、初のベリーショートでの来日三年ぶりのマドンナファンの女性に多大な影響を及ぼす。
もはや、ミュージカルダンスの領域のパフォーマンス。
1994年
* 3月に放映されたテレビトーク・ショー『デヴィッド・レターマン・ショウ』に出演。当時メディアから批判、ジョークの的になっていマドンナが、それらのジョークを言っていた一人であった司会者の番組で、不敬な俗語を13回も連発、世間の大きな非難を浴びた。しかし、この一連の失敗が彼女に「脱セックスシンボル」を意識させるようになる。10月には7枚目スタジオ・アルバム『[[ベッドタイム・ストーリーズ]]』を発表。プロデューサーにはベイビー・フェイスを起用。バラード「テイク・ア・バウ」は自己記録最長となるビルボードHOT100で7週連続No.1を記録する大ヒットに
 
* 10月、7thアルバム『[[ベッドタイム・ストーリーズ]]』をリリース。プロデューサーにはベイビー・フェイスを起用。バラード「Take A Bow」は自身最長となるビルボードHOT100で7週連続No.1を記録する大ヒットに。
== 1995 to 1999: エビータからレイ・オブ・ライト==
1995年
* 日本では宝酒造の焼酎「純」のCMに出演していた。このCMのみで使われたオリジナル楽曲があった。
* 2枚目のベストアルバム『[[ベスト・オブ・マドンナ~バラード・コレクション|Something To Remember]]』をリリース。自身初となるバラードソングだけを集めた作品で、マドンナの新たなイメージを見せつけるきっかけとなった。本作品には、全米No.1を記録した「This Used To Be My Playground」や[[マーヴィン・ゲイ]]のカバー曲「I Want You」も収録されている。売り上げは、全世界で820万枚を記録。
* MTV Video Music Awardでシングル「Take A Bow」のPVがBest Female Video部門を受賞。
* さらに、アルバム『[[ベッドタイム・ストーリーズ]]』はこの年の[[グラミー賞]]にノミネートされた1996年1996年